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映画『波止場』動画視聴感想 ※反骨/無反省/一本気

『波止場』(1954年)

主演:マーロン・ブランド

第27回 アカデミー賞(1955年)作品賞ほか8部門獲得。港湾組合の実態を描いたピューリッツァー受賞のルポを映像化したエリア・カザン監督の野心作。波止場に君臨するボス一味と対決するマーロン・ブランドの怒りが爆発するシーンは胸がすくほどパワフルだけど、どこか物哀しい。社会派&人間ドラマの傑作の魅力とは……?

『波止場』
出典:Amazon.com

この映画、こんなあなたにおすすめです!

  • 味方がいなくても、ひとり自分の意志や流儀を守りたい方
  • 長いものには巻かれたくない方
  • 組織の中で生きることについて、雇われる生き方について、腰を据えて考えたい方

『波止場』作品情報

監督 エリア・カザン
脚本 バッド・シュールバーグ
撮影 ボリス・カウフマン
音楽 レナード・バーンスタイン
出演 ・テリー・・・マーロン・ブランド
・イディ・・・エヴァ・マリー・セイント
・ジョニー・・・リー・J・コップ
・神父バリー・・・カール・マルデン
・チャーリー・・・ロッド・スタイガー
上映時間 108分
ジャンル 社会派ドラマ

ストーリー

舞台はニューヨークの波止場。港湾組合の顔役であるジョニー(リー・J・コップ)は、いびつな力関係をもって波止場の裏面で暗躍していた。ジョニーは幹部のチャーリー(ロッド・スタイガー)に命じて、邪魔者の労働者を謀殺するように命じる。

いっぽう、チャーリーの弟で元ボクサーのテリー(マーロン・ブランド)もジョニーに唯唯諾諾とした態度だったが、殺された労働者の妹イディの嘆き悲しむ姿に突き動かされ良心に目覚める。ついにテリーは兄チャーリーの反対をよそに、ジョニーの不正を法廷で証言すべくひとり立ち向かうが……

『波止場』感想

まめやか流筆のすさび

無反省に暴れる反骨 ブチ切れ弾けて輝く…一本気

『波止場』を見て感じた印象を筆のすさびで表現

人間が発散するエネルギーの凄み

1954年の映画ですから、特殊効果のようなものは求めがたい。だが、ざらついた粗い粒子の白黒作品でも、人間のもつエネルギーの迫力はビビッドに痛切に伝わってくる。いや、白黒だからこそ、人間存在の凄味が真に迫るといえるかもしれない。

『波止場』の映像は、明暗、陰影、起伏が豊かである。モノクロの効果もあいまって、ヒロイン・イディと神父バリーの「光」の側と、波止場の牛耳る悪徳ボスのジョニー一味の「闇」の側とのコントラストが鮮やかだ。その「光」と「闇」のあいだを揺れ動きながら、自らの尊厳のために闘うことを選ぶ主人公テリー。

彼の人間的な凄味や力感も、粗い白黒の映像だからこそ、ほとばしるように伝わってくる。もし 『波止場』がカラー作品なら、登場人物たちが発散するエネルギーや雑味をここまですくいきれなかっただろう。

無反省に暴走する反骨に共鳴する

歪んだ力関係が支配する港湾労働者社会のなかで、ひとり不正を告発する主人公テリーの姿を見て、勇気づけられる人は少なくないと思う。無反省に暴走する反骨心と一本気に触れて、人は理屈を抜きにして共鳴するのではなかろうか。とくに毎日、厳しい環境のなかで戦っている人ならなおさらだろう。

長いものに巻かれることを拒否し、自分の良心に従って生きるのは並大抵のことではない。場合によっては味方だと思っていた人も離れていくこともあるだろう。それでも自分の筋目を通し、反骨の気概を持って自らが正しいと信じる途を歩む人の心に、『波止場』の物語は静かにしみこんでくるはずだ。

ラスト12分間のマーロン・ブランドが大暴れする場面は、ピンと張り詰めていて、最後の最後で良質なカタルシスを用意してくれている。純良な哀しみのようなものが隅々にまで行き渡っていて、しばらくしんとした余韻に浸ってしまう。それは、毎日孤独に戦い続ける人をあたたかく励ます余韻である。

監督エリア・カザンの屈託が作品に投げかけているもの

この作品の監督はエリア・カザン。『紳士協定』『欲望という名の電車』『エデンの東』といった名作を手がけてきた巨匠だ。アクターズ・スタジオの創設者のひとりでもある。

共産党員の経歴をもつこの人は、第二次大戦後、吹き荒れた「赤狩り」の内通者として、かつての仲間を心胆を寒からしめた。そのため、「監督エリア・カザン」の実力は認めるが、「人間エリア・カザン」の裏切りは到底赦すわけにはいかない━━ そう考える業界人は少なくない。

そんなエリア・カザンが『波止場』という作品を作ったことに感慨深いものがある。ドラスティックな転向を遂げた監督がこの映画にこめたメッセージを「組合批判」と見る向きがあるのもまったく根拠のないことではない。

『波止場』からどんなメッセージを読み取るかは人それぞれであるにせよ、ひとつ間違いのないことは、エリア・カザンの屈託や孤愁が、この映画に暗い影を落としていることだ。そんな暗い影はあながち悪いものではなく、『波止場』に、やるせない哀調と重厚たる風格を与えているように思う。

『波止場』のキャストについて

テリー(マーロン・ブランド)

元ボクサーのテリーを強烈な個性を発揮して演じている。兄チャーリーがもちかけた八百長試合に乗ったことで、あたらボクサーとしてのキャリアを潰したテリー。それ相応の屈託があってもおかしくはない。

しかるに映画が始まってしばらくは、マーロン・ブランドにしては「一筋縄ではいかないややこしさ」は希薄に思えた。なんだか素直な感じの青年なのでいささか肩透かしを食らったような、もの足りないような。でもそこはマーロン・ブランド。物語が進み、イディとの関係が深まるにつれて、マーロン・ブランドの陰影がいよいよ際立ってくる。

クールなようでひとつひとつの表情はしぐさが粒立っていて、自然に流しながらもしっかり句読点を打つような演技。登場人物のひとりひとりにからみつき、ひとりひとりに妥協なく肉薄してゆく姿勢には目を見張るものがある。マーロン・ブランドは体温や息づかいまでも観客に伝えようとしているかのようだ。

あふれる叙情性には湿っぽさが抑えられていて、どこまでも力強く彫りの深い表現を貪欲に追求してゆく。お行儀は悪いが不埒に堕さない。口は悪いが仁義を欠かない。ブチ切れたら手に負えないけれど節度と繊細なハートは残している。そんなテリーという役柄は、実生活でもやんちゃだったマーロン・ブランドにつきづきしい。

物語の最後、人間の尊厳を高らかに謳い上げるようなたたずまいは、「名優」の名をほしいままにした男の、野心とたくらみを感じさせる。『ゴッド・ファーザー』(1972年)を待つまでもなく、マーロン・ブランドの俳優芸術はこの作品でひとつの頂点をきわめているように感じた。

イディ(エヴァ・マリー・セイント)

芯が強く、敬虔にして艶冶(えんや)な佳人を透明感のある演技でこなしている。イディという役柄から考えると、もうすこし鼻っ柱の強さがあってもいいのかもしれない。だが、この人が演じるとほどよく制御されて、あえかな美しさを体現している。

肌理の細かさや、男の前で見せる含羞は、モノクロでも十分水際立っていて、見る者の心を打つ。希望に胸をはずませる可憐な笑顔も、憂愁をたたえた陰りある表情も、高雅でどことなくせつない。

エヴァ・マリー・セイント━━ 不思議な吸引力をもった実力派女優である。

神父バリー(カール・マルデン)

テリーに勝るとも劣らない横紙破りな神父を力感豊かに演じているカール・マルデン。この人もまた素晴らしい役者だ。「雉も鳴かずば打たれまい」━━ そんな閉塞感漂う波止場のなかで、己の身の危険も顧みず、不正をただすために奔走する神父の姿は厳かで、放つ言葉にも一切まじりけはない。

神父バリーがテリーに問う、「魂を失っても生きたいか?」。この言葉には、簡潔だけどずっしりと持ち重りがして、うたた感慨に堪えないものがある。それはカール・マルデンという役者が持っている説得力によるところが大きいと思う。

まめやかコラム

【コラム】組織あるところ、「波止場の闇」あり

『波止場』で描かれる労働者たちの暗黙のルール、、、それは「見ざる言わざる聞かざるこそ、この波止場で生きのびる知恵」です。このルールが悪徳ボス、ジョニーのもつ歪んだ力関係をさらに強固なものにしています。「雉も鳴かずば……」で適当に長いものに巻かれておけば、まず食い詰めることはありません。いよいよ力関係は揺るぎないものになるという成り行きです。

現実の世界においても程度の差こそあれ「波止場の闇」は存在します。国家、文化、宗教、業種は関係なく、組織あるところに「波止場の闇」あり、と考えるのは飛躍のしすぎでしょうか。どんな組織も人間で構成されている以上、矛盾やねじれはひずみが生じて、「波止場の闇」が生じてしまうのは理の当然といえるでしょう。

組織に属するからには、ボスや上役に逆らうことはできません。「ボスのやることはいささか首を傾げざるをえないが、しょせん自分は末端の人間。口出しする筋合いなんてない」と考えるのも、真面目な組織人であればむべなるかなといったところ。とくに日本の社会では、周囲との調和を最優先に配慮し、人間関係に折り合いをつけながら、自分の考えを微調整していくことが求められます。それができて一人前として認められる。

言うまでもなく組織が犯罪に加担しているのを知りながら、「見ざる言わざる聞かざる」という態度は論外ですが、小さな「闇」なら、うまくつきあっている人は少なくないと思うのです。もしかしたら、あなたのご両親も、所属していた組織の中に生じていた「波止場の闇」と葛藤しながらも、家族を養うために我慢してお勤めをされているかもしれません。(あるいはされていたかもしれません)。そう考えると、感慨深いものがありませんか。

少なくとも僕は、小さな「波止場の闇」とうまくつきあって生きる人びとを非難するつもりはありません。そんな生き方を卑小だとは思えないのです。彼らとて葛藤や逡巡を繰り返し、苦汁をなめながら頑張っているわけですから。立派な生き方です。

一方、「波止場の闇」と折り合いがつかなければ、ひとり静かに組織を去る人もいます。それもまた自分に誠実で勇気ある生き方です。逃避でもなんでもありません。

大事なポイントは、組織であるかぎり生じてしまう「波止場の闇」を認識し、それに自分がどう距離をとっていくかに自覚的であることではないでしょうか。「闇」を「闇」として認識できなければ、「闇」にからめとられて自分を見失ってしまうのは道理です。


わたくしごとですが、組織を去り、雇われる生き方に見切りをつけ、ひとりで仕事をするようになってから13年目の夏を迎えようとしています。

ちゃお!!

それではまた