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『トッツィー』感想※本音で生きることの大切さと難しさを教えてくれる映画

トッツィー(1982年)

主演:ダスティン・ホフマン

ダスティン・ホフマンが魅力的なトッツィーを演じたヒューマン・コメディの傑作。さえない男優がひょんなことから女優「ドロシー」に転身。一躍メロドラマで人気者になるが、男性から想いを告げられたり、意中の女性から同性愛者であることを疑われたりして混乱していく。ただのコメディでは終わらない、『トッツィー』から学べることとは……

トッツィー
出典:Amazon.com

この映画、こんなあなたにおすすめです!

  • ちょっとビターなコメディを楽しみたい人
  • しっかり笑って最後はカタルシスを求める人
  • 自分らしい生き方を模索している人
  • 本音と建前の使い分けに苦しい思いをしている人

『トッツィー』作品情報

監督 シドニー・ポラック
脚本 ・ラリー・ゲルバート
・マレー・シスガル
撮影 オーウェン・ロイズマン
出演 ・マイケル(ドロシー)・・・ダスティン・ホフマン
・ジュリー・・・ジェシカ・ラング
・ジェフ・・・ビル・マーレイ
・サンディ・・・テリー・ガー
・ジョージ・・・シドニー・ポラック
ジャンル ヒューマン・ドラマ

ストーリー

マイケル・ドーシー(ダスティン・ホフマン)は演技へのこだわりが強いゆえに周囲とのトラブルの絶えない中年俳優。ガールフレンドのサンディが病院を舞台にしたメロドラマのオーディションを受けるも不合格になる。

折しもお金が必要なマイケルは女優「ドロシー・マイケルズ」としてオーディションに受けると見事合格。やがてドロシーはお茶の間で人気を博し、メロドラマに欠かせない存在になっていく。

しかし、想いを寄せる共演女優ジュリー(ジェシカ・ラング)からは同性として頼られてしまい、マイケルとしては心中は複雑。しかも、ジュリーの父親からプロポーズされることに。混乱続く二重生活に耐えかねたマイケルが起こした行動とは……?

『トッツィー』感想

まめやか流筆のすさび

ほろ苦い魅惑の変身!異性になってはじめて気づく人生の妙味

『トッツィー』を見て感じた印象を筆のすさびで表現

「女優」として成功した男性の気持ちの晴れなさ、ほろ苦さ……

『トッツィー*1』。あまりにも有名な映画なのに、これまで視聴をためらってきたのには理由がある。「女装したダスティン・ホフマンが繰り広げる愉快なドタバタコメディ」という先入観にとらわれて、そのての異色さには、いまいち食指が動かなかったからだ。

ところが、先日時間があったので、なんとなく『トッツィー』を見始めたら、これがやたらとおもしろい。ただの上質なコメディとしてではなく、「俳優」という職業を選んだひとりの中年男性の成長譚として見ると、けっこう噛みごたえのある作品だなあと。

主人公マイケルは、女優「ドロシー・マイケルズ」へと ”魅惑の変身” を遂げて人気者になる。だが、マイケルの心はちっとも晴れない。それもそのはず、マイケルは心もからだも「男」であり、望んでいるのは男優としての成功であり、女優のそれではない。なにより愛する女性には、「男」としての自分に好意を抱いてほしい。

皮肉なことに、「ドロシー」として抜きん出た大成に向かうほど、マイケルはいよいよ本音で生きる人生から乖離していく。その人生のアイロニーがもたらす切なさが、まっすぐ痛切に伝わってくる。上質なほろ苦さを感じさせる映画だ。

日常の自分を大きく逸脱することで見えてくるもの

マイケルには、それまでの直情径行的な自らの生き方を、新しい視点から見つめ直す必要があったのだと思う。彼は「ドロシー」という別人格になることで、自分という人間をゼロベースから丁寧に洗い直し、それまでわかりづらかった自分の本音が、靄が晴れたようにクリアに見えるようになる。

別の性に変身して、自分の本音がわかる━━ これは年齢的に若くない中高年男性にとって、慶賀すべきことであり、同時に切ないことでもあるだろう。本音をごまかし続ける生き方よりも、後悔がない生き方であることは間違いない。『トッツィー』を見終えて感じたのは、主人公は異性に変身することではじめて生の妙味をつかんだのかもしれないな、ということ。魅惑の変身にはかくのごとき実際的な効果があるのかもしれない。

といっても、あなたにも「たまには異性に魅惑の変身をしてみては……」と勧めているわけではないので安心してほしい。僕も、女装をしたいという気持ちは ━━ 残念ながら━━ これっぽっちもないのだから。

ただ『トッツィー』が示している貴重な示唆を見過ごすのはあまりにもったいない。それは、「ときとして日常の自分を大きく逸脱することで、自分の本音が見えてくる」ということだ。普段とは違う場所から、自分を省みることの意義はけっして浅いものではないだろう。 たとえば、、、

・進学・就職・転勤・転職で住み慣れた家を離れるとき
・仕事やプライベートで何か新しい役割を引き受けたとき
・どこか遠い街へ旅に出るとき
・大きな出会いと別れがあったとき

こういう機会は、それまで馴染んでいた日常の自分を、冷静に洗い直すまたとない契機とは言えまいか。何もわざわざ魅惑の変身を遂げなくても、自分の本音を詳らかにすることはできるのである。余裕があれば、「魅惑の変身」、やってみるのも一興ですが。

『トッツィー』のキャストについて

マイケル=ドロシー(ダスティン・ホフマン)

『トッツィー』は、ダスティン・ホフマンの卓越した芸達者ぶりを見せつけた作品である。なにせ、マイケルと、女装したドロシー、そしてドロシーが演じる劇中劇のエミリー、このカラフルな個性をもつ3役をこなしている。それでいて、女装したダスティン・ホフマンはそれほど違和感がない。無理がない。

女性ものけぞる妖しい美しさではないが、女性でも男性でもない性差を超えた不思議な人間的魅力が水際立っている。ドロシーのものおじしない主張の強さと、ドラマの台詞を勝手に変えてアドリブをぶちこむ大胆さは、なんとも融通無礙で、見ていて胸がすく思いだ。

老練さとみずみずしさを打ち消しあうことなく、共存させながら自然に表出できる演技には、ただもう脱帽するしかない。

ジュリー(ジェシカ・ラング)

どことなく淡い哀しみと憂いをたたえた女優ジュリーを折り目正しく熱演。おだやかなだけでに裡に秘めた一筋縄ではいかないパトスを感じさせる。色香はたっぷりあるが、それを抑制しうるだけの慎ましさにも不足はない━━ ジェシカ・ラングはそんな女優だ。

終始一貫して飾らない存在感が好印象。葛藤を抱えながらもまっすぐ素直に生きようとする姿が、見る者の心を深く打つ。それにつけても、女装したダスティン・ホフマンを女性の鏡として仰ぎ見るところがなんだか可笑しい。

ジェシカ・ラングは『トッツィー』で第55回アカデミー助演女優賞を受賞している。受賞コメントは、「主演女優ダスティン・ホフマンのおかげよ!」。性差を超越した主役への、満腔のリスペクトがこめられた賛辞だと思いませんか?

まめやかコラム

必ずしも「100%本音で生きること」が幸せではない

社会人として生活する以上、程度の差のこそあれ、周囲に合わせることが要求されます。ときには人に好かれようと頑張る局面はあるだろうし、周囲の空気を読んで自分に期待された行動をとる必要もあるでしょう。

けれども、周囲に合わせているうちに、なんだか息苦しさを感じてしまう。いつしか自分の本音がじりじりと後退して、建前を生きる別人を演じているような気持ちになる━━ そういう人は少なくありません。自分の存在の「輪郭」が曖昧になっているといいましょうか。実はそれが自己肯定のできないことにも繋がっているのではないかと。

僕の周囲を見る限りですが、自分の本音から隔たること遠い生き方をしている人ほど、自己肯定にためらいを覚える人が多いように思います。あなたの周囲にもいませんか?人の目を気にするあまり、周囲から好かれよう、認められようとして、かえって自信を失いがちになっている人を。周囲に取り入ろうと必死になっているうちに、周囲からいいように操作されている━━ これでは自分をリスペクトできないのは至極当然です。

もちろん本音と建前は誰にでもあるし、「建前で生きるのは人として恥ずかしいことだ」なんて言うつもりはありません。考えてみてください。100%本音で生きるということは、相当な覚悟が必要です。並大抵なことではありません。実際にそんな生き方をしたら、大きな心身ともに大きな負荷がかかるでしょう。

ではどうしたらいいのか?
感覚でもいいので、「演者」の自覚を持つ━━ これです。

「演者」として、「便宜的に本音と建前を行き来している」という自覚を持つことで、自分の人生に主導権を取り戻すことができます。ちょうど『トッツィー』の主人公が、マイケルとドロシーと間をせわしくなく行き来するように。ただし、ぼんやりと「本音と建前を行き来しているなぁ……」と思うだけでは弱いかもしれません。

そこで、自分のルールとして言語化することをおすすめします。
たとえば、「会社では本音が6割、建前4割で生きる」と感覚的に決めてみる。あるいは、「組織のルールには従うけれども、人に好かれるために軽率なふるまいはしない」と決める。このように自分ルールを言語化しておくと自覚を促しやすくなります。

「100%本音で生きること」が、必ずしもハッピーなのではありません。実際問題、「100%本音で生きること」が難しいなかで、自分を適正にバランスさせている実感が、自分に対する自信、ひいては健全な自己肯定感につながるのではないでしょうか。

たとえ「100%本音で生きること」がかなわなくても、自分の意思で本音と建前をバランスできている感覚を取り戻すだけでも、人は健全な魂を維持することができるように思うのです。

考えてみたら、社会で生きる以上、人は誰でも「演者」であり「俳優」だと思うんですよね。社会の中で生きざるをえない以上、人はすべからく女優として男優として演ずる意識をもつことが肝要であると。もちろん、あなたも自分に与えられた人生という「舞台」における「俳優」です。

「舞台」といっても、あなたは「演者」として立つことを恐れる必要はまったくありません。「面白おかしく本音と建前を行き来してやれ!」くらいの気持ちでいいんじゃないでしょうか? 面白がるという意識に切り替えるだけでも、少し肩の力が抜けて、本音と建前のバランスしやすくなるでしょう。

わざわざ異性に変装しなくても、マインドだけでも ”魅惑の変身” は遂げられるのです。

ちゃお!!

それではまた

*1:トッツィーとは、「かわいいおねえさん」という意味の俗語。