『カッコーの巣の上で』感想※説教臭さなし!人間の尊厳を高らかに謳いあげた映画

カッコーの巣の上で

『カッコーの巣の上で』(1975年)

主演:ジャック・ニコルソン

第48回アカデミー賞(1976年)「作品賞」「監督賞「主演男優賞」「主演女優賞」「脚本賞」を獲得した、人間の尊厳をうたいあげたヒューマンドラマ。1960年代の精神科病院を舞台に、刑務所から移送されてきた服役囚の主人公が、自由と人間性の解放を声高に叫ぶ。色褪せない名作『カッコーの巣の上で』の魅力をご紹介。

目次

『カッコーの巣の上で』一筆感想

尊厳について考えさせられる
『カッコーの巣の上で』を見て感じた印象を筆のすさびで表現

あらすじ

ランドル・パトリック・マクマーフィー(ジャック・ニコルソン)は検査のためにオレゴン州立精神科病院に移されてきた。刑務所の労働を忌避したいばかりに詐病の疑いがあるためだ。

病院内では厳格なルールのもと、看護師長ラチェッド(ルイーズ・フレッチャー)が患者を管理していた。自由奔放にふるまうマクマーフィーは、他の入院患者が融通のきかない管理体制に唯々諾々とした態度でいることに違和感を覚える。

テレビで野球観戦すら許されない不自由さに嫌気がさしたマクマーフィは脱走を計画。彼は他の患者と一緒に無断で海釣りに出かけたり、病院に女友達を呼んで酒盛りをしたりして反抗を繰り返す。

やがて脱走を図るまたとない好機が訪れるが……

『カッコーの巣の上で』レビュー

『カッコーの巣の上で』個人の評価
『カッコーの巣の上で』個人の評価

単純な反体制映画ではない

1962年発表のケン・キージーの原作小説は、ベトナム反戦運動で活気づいた学生たちに支持されてベストセラーに。舞台となる「精神科病院」は、人間性を抑圧する「体制」の比喩として描かれている。

管理社会がその目的を追求すると、アンヒューマンな様相を呈し人間の尊厳を脅かす。アンチヒーローが人間性を取り戻すべく立ち上がる━━ よくある図式といえなくもないが、物語の舞台設定の巧みさとキャスティングのセンスが光ると、馴染みのよい図式ゆえの「浸透力」が発揮されて、人々の心に深く沁みこんでいく。

とはいえ、単純な反体制映画では時代を超えた名作とはなりえないだろう。『カッコーの巣の上で』の映画化にあたって、より普遍的なメッセージを届けるための創意工夫はされているようだ。ミロス・フォアマン監督が、「反体制、反権力映画ではない。人間と人間存在の素晴らしさを描いた」と述べていることからも、そのことがうかがえる。

たしかに主人公マクマーフィはアウトサイダーではあるけれど、反体制特有のギスギスした印象はそれほどない。どちらかいうと、快活で陽性の人物として描かれている。退屈な日常に風穴を開けるような、奔放さ、痛快さ、爽快感、躍動感が感じられて、観客はマクマーフィに共感してしまう。人間存在の確かなかがやきがうかがえるのだ。

人間の本性に寄り添うやさしさ

『カッコーの巣の上で』の後半に、大好きなシーンがある。
マクマーフィは、入院患者のビリー(ブラッド・ドゥーリフ)が、自分のガールフレンドに気があることを察して、彼女にビリーの「相手」をするようお願いする場面だ。一般的な男性の心理から考えると正気の沙汰ではない。とうてい理解できかねる行為である。(承服するガールフレンドもどうかと思うが……)

だが、マクマーフィは、人間の本性を洞察し、どこまでも人間の本性に根ざしたふるまいをする人。自分が本性に素直だからこそ、他者の本性にも寄り添えるのではないだろうか。

実はこのマクマーフィの ”粋な計らい” によって、物語はクライマックスに向かって劇的に展開していくことになる。皮肉というか、もどかしさというか、歯がゆさというか、ひと言では形容できないさまざまな思いがこみあげる。人間的なあまりに人間的な愚かさや欠陥を抱えたマクマーフィだからこそ時代を超えて人々に共感されるのだろう。

『カッコーの巣の上で』はこんなあなたに見てほしい……

【おすすめできない人】

  • ガチガチに管理された組織のなかで安定的な地位にいる人
  • 体制側やマジョリティの側に入ることで安心感が得られる人
  • 決められたルールには違和感を持つより、まず順応してしまう

・・・こういう人は『カッコーの巣の上で』を見たところで、あまり響かないかもしれない。身につまされるところがないために、主人公のマクマーフィがおそろしく不快で野卑な人物と映ずる人もいるだろう。


【おすすめできる人】

  • 組織のなかで息苦しい思いをしている
  • 不本意なポジションに甘んじている
  • 意に染まない仕事に携わってる
  • 団体行動が苦手

・・・上記にあてはまる人なら、マクマーフィの言動や行動に溜飲が下がること請け合いである。つまり一見の価値がある映画だ。自身の生き方を振り返り、身の処し方を考える機会を与えてくれるだろう。自分の人生を内省し俯瞰することで、「外的な状況」は何も変らなくても「内的なありかた」は一変するかもしれない。『カッコーの巣の上で』にはそれだけの力がある。

『カッコーの巣の上で』のキャストについて

マクマーフィ(ジャック・ニコルソン)

ケチのつけようのない演技である。
社会や人間の矛盾を痛快にえぐり出す演技は随一の俳優だろう。顔色ひとつ変えず、狂気のぎりぎりの瀬戸際まで自分を追い込んでいくような演技には圧倒されてしまう。演技にしては自然すぎるし、地にしては劇的にすぎる。あるいはジャック・ニコルソンは生来のトリックスターなのかもしれない。

前年の『チャイナタウン』(1974年・ロマン・ポランスキー監督)では、タフな私立探偵を演じていたが、いまいちジャック・ニコルソンの持ち味がこもりがちだったように思う。1930年代後半の雰囲気はけっして嫌いではないが、ただのハードボイルドな男前を演じても、この俳優の男振りは際立たない。この人はエキセントリックな人物を演じることで、セクシーで濃厚なカッコ良さをに立ち上げることができるのではなかろうか。

役者としての演技力や技巧は申し分ないけれど、どんな役柄でもこなせる人ではないと思う。あの突出した演技力が邪魔して芸域を狭めてしまうタイプといえよう。技巧を必要としない存在感だけで成り立つような役柄で、この人の凄まじい個性のほとばしりを堪能できるのだ。

確実に言えるのは、ジャック・ニコルソンは『カッコーの巣の上で』によって、その後の名優・怪優としてのキャリアを方向づけたということ。ターニングポイントとなった作品であることは間違いない。

看護師長ラチェッド(ルイーズ・フレッチャー)

組織のルールの遵守のためにはどこまでも冷徹になれる看護師長は、ジャック・ニコルソンとは対照的な存在だ。『カッコーの巣の上で』のなかでは、一切笑わなかったこの人も、アカデミー主演女優賞を受賞したときくらいは笑顔をこぼしただろう。

映画の中では終始表情を抑制し個性の発露を自制しているけれど、その異常なまでのストイックさがこの人の存在感の隈取りを深めている。演技によって自分を必要以上に誇示しようとせず、かといって感情表現にも向かわない。

ラチェッドという役柄は、演じるのが相当難しいキャラクターだと思う。頑張りすぎても技巧倒れしてしまう人物だろう。それゆえにこの人にとっては、腕が鳴る、やり甲斐たっぷりな役だったのではないだろうか。

映画の後半、ルイーズ・フレッチャーは凄まじい表情をみせてくれる。脳裏に焼き付いて離れなくなったほどのインパクトだ。この人が捨て身でラチェッドを演じたことがわかる。

その他のキャスト

ビリー(ブラッド・ドゥーリフ)

精神科病院に入院している青年。繊細で傷つきやすく、過去に家族問題で心に深い痛手を負っているようだ。それでいて、健全な男性として欲求を持っていて、マクマーフィを兄貴分として慕っている。抑えた感情表現が素晴らしい。控えめだけどたしかな演技力をもつ俳優である。ちなみに、この人は、『チャイルド・プレイ』に登場する化け物人形チャッキーの声でも有名。

チーフ(ウィル・サンプソン)

まったく喋らないネイティヴ・アメリカン。抑制をきかせた演技が印象的だ。この人の存在感も強烈だが、「魂の寂寞」のようなものを感じさせる。思索的で求道的なおもむきもうかがえる。まるで世界の深淵を覗いてみてきた人のような風情だ。ある意味『カッコーの巣の上で』は、チーフの物語と言えるかもしれない。

テイバー(クリストファー・ロイド)

入院患者のひとり。この人を見たとき、ちょっと感激してしまった。
クリストファー・ロイドは、この作品から10年後、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の「ドク」ことエメット・ブラウン博士を演じる俳優だからだ。

テイバーという役柄は、「ドク」を彷彿とさせるものがある。歓声のあげかたや興奮したときの身振りは、タイムマシン「デロリアン」を作ったマッドサイエンティストの若い頃のようだ。ジャック・ニコルソンとは芸風が違うけれど、この人もまた余人には替えがたい怪優である。

『カッコーの巣の上で』作品情報

監督ミロス・フォアマン
脚本ローレンス・ホーベン/ボー・ゴールドマン
撮影ハスケル・ウェクスラー/ビル・バトラー
原作ケン・キージー
音楽ジャック・ニッチェ
出演・マクマーフィー・・・ジャック・ニコルソン
・看護師長ラチェッド・・・ルイーズ・フレッチャー
・ビリー・・・ブラッド・ドゥーリフ
・チーフ・・・ウィル・サンプソン
・ハーディング・・・ウィリアム・レッドフィールド
・テイバー・・・クリストファー・ロイド
・チェズウィック・・・シドニー・ラシック
上映時間133分
ジャンルヒューマンドラマ

「憎まれ役」が教えてくれたこと

『カッコーの巣の上で』で憎まれ役のラチェッド看護師長を演じたルイーズ・フレッチャーはこんなコメントを残しています。

「みなさんが私を憎んでくれたおかげで、オスカー像を手にすることができた」

ラチェッドなら絶対言わないユーモラスな言葉ですよね。
ラチェッドという人物は、相当嫌われているようです。あまりの嫌われように、なんと映画公開から45年後にテレビドラマシリーズの主役として甦っています。たしかにディープな闇を抱えていそうなので面白いドラマになりそうだけど。

でもどうなんでしょう?
本当にラチェッドって悪い人物なんでしょうか?

僕はそれほど彼女が悪い人間だとは思えないのです。
そこで、このコラム欄では、映画史に残る憎まれ役「ラチェッド看護師長」に肩入れしてみたいと思います。

ジャック・ニコルソン演じるマクマーフィが自由の象徴だとしたら、ラチェッドは「制限」「拘束」の象徴といえましょう。典型的な杓子定規なタイプです。もし彼女が人気者を目指すなら相当な努力と歩み寄りが必要かもしれませんね。

とはいえ、彼女は冷酷なのではありません。
とことん冷徹な人なのです。
冷酷と冷徹は似ているようでその内実は異なります。

ラチェッドはプロフェッショナルの職業人として、自分の筋目を通す人です。看護師長に与えられたミッションは「入院患者を社会に復帰させること」。馴れ合いを捨てて、情実にとらわれない職務遂行が求められる。冷徹でなければ務まりません。

ところで『カッコーの巣の上で』に登場する患者の大半は、自分の意思で入院しています。自分たちが出たいと思えば退院できる立場にある。(ちなみにマクマーフィは病院の許可なく勝手に退院することはできません)

ラチェッドは看護師長として、社会のなかで行き場を見失った患者が、一時的にせよ安心して保護を受けられる「避難所」の監視者といえましょう。そこでの秩序が維持されるにはルールが徹底されなければなりません。ラチェッドはその職務をまっとうしているだけなのです。

そう考えると、「ラチェッドは悪い奴」という通説は、いささか公正さを欠くように思います。

十分肩入れしたので、公正を期するために、ここからラチェッドの危うさについても言及しておきましょう。

日本にも、ラチェッドのようなタイプの人は、どの職業にも存在するのではないでしょうか。ラチェッドタイプの弱点は、己の正しさを絶対視するあまり、他者の人間性や尊厳を否定し、抑圧する傾向性に無自覚になりやすいことです。

己の正しさといっても、それは誰にとっても正しいものとは限りません。誰にとっても正しかったら、マクマーフィも病院のルールに反抗することなく大人しく従っていたでしょう。

「正しさ」を標榜することは、それほど簡単なことではありません。とりわけ「絶対化された正しさ」ほど危険なものはない。「絶対化された正しさ」は、相対化を欠いているというまさにその理由によって、正しからざるものになります。盲目的に先鋭化されていく「正しさ」は、凄まじい暴力性を帯びることもある。

『カッコーの巣の上で』のラチェッドは、「正しさ」の持つ危うさを教えてくれるありがたい存在なのです。

『カッコーの巣の上で』の視聴方法

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