『マディソン郡の橋』感想考察※誰にでも起こり得る4日間

『マディソン郡の橋』

『マディソン郡の橋』(1995年)

主演:クリント・イーストウッド/メリル・ストリープ

原題:The Bridges of Madison County

ロバート・ジェームズ・ウォラー原作小説の『マディソン郡の橋』は映画でも世界的にヒット。アイオワ州マディソン郡ウィンターセットに住む主婦フランチェスカは一人きりで4日間を過ごしていた。そんな彼女の前にフォトグラファー・キンケイドが現れる。見ず知らずのふたりが自然に愛し合い、そして別れるまでの奇蹟の4日間を描いた大人のロマンス。『マディソン郡の橋』のみどころや考察、キャストの感想などを綴ります。

このページではこんな疑問を解決します!
  • 『マディソン郡の橋』のあらすじ、作品データが知りたい
  • この物語の感想、考察は?
  • なぜ『マディソン郡の橋』は映画も小説も世界的にヒットしたのか?
  • 主演ふたりの魅力は?
目次

『マディソン郡の橋』(1995年)作品情報

一筆感想

人を好きになることのつらさ
『マディソン郡の橋』の感想を筆のすさびで表現

作品データ

ASCAP映画テレビ音楽賞 ━━ 最高興行収入映画賞
BMI映画テレビ賞 ━━ 映画音楽賞 (レニー・ニーハウス)
ブルーリボン賞 (日本) ━━ 外国作品賞
キネマ旬報 (日本) ━━ 外国語映画監督賞 (クリント・イーストウッド)
毎日映画コンクール (日本) ━━ 外国語映画賞

監督クリント・イーストウッド
制作キャスリーン・ケネディ/クリント・イーストウッド
脚本リチャード・ラグラベネーズ
音楽レニー・ニーハウス
原作ロバート・ジェームズ・ウォラー『マディソン郡の橋』
編集ジョエル・コックス
出演クリント・イーストウッド(ロバート・キンケイド)
メリル・ストリープ(フランチェスカ・ジョンソン)
アニー・コーリー(キャロライン・ジョンソン)
ヴィクター・スレザック(マイケル・ジョンソン)
ジム・ヘイニー(リチャード・ジョンソン)
上映時間134分
ジャンルロマンス

『マディソン郡の橋』あらすじ

『マディソン郡の橋』あらすじ

「わたしの死後、遺体は火葬にして、灰をローズマン・ブリッジから撒いてほしい」

1989年 ━━
マイケルとキャロリンの兄妹は、亡くなった母フランチェスカの遺書を確認して絶句する。なぜならマディソン郡では火葬は稀有であり、あまつさえ遺灰を橋から撒くなんて狂気の沙汰だからだ。だが、母が遺した手記を通して、 “フランチェスカ” というひとりの女性の人生のしんじつを知った兄妹は、魂を根底から揺さぶられるほどの感銘を覚えるのだった ━━

1965年 ━━ マディソン郡ウィンターセット。
フォトグラファー兼ライターのロバート・キンケイドは、濃緑色のピックアップトラックに乗って、この片田舎にしかない屋根付きの美しい橋の撮影に訪れる。彼は道に迷い、お目当ての橋を場所を訊ねようとトラックを停めた場所は小さな農場だった。

農場の主婦、フランチェスカは見馴れぬ長身の男に親切に応対する。ロバートの目的地であるローズマン・ブリッジまでの案内を申し出た彼女は自分の行動をさして無分別とは思わなかった。夫とリチャードと、長男マイケル、長女キャロリンはカウンティフェア(家畜の品評会)に出かけて4日間家を空けている。あのだだっ広い家で、4日間をたったひとりきりで過ごすことになるのだ。

この見ず知らずの男に親切心をほどこしてもさしたる害はないだろう。
いくばくかの好奇心も彼女の行動を後押ししたかもしれない。

ローズマン・ブリッジにまでの道中、ロバートのトラックのなかでふたりは身の上話に興じる。ロバートが世界を旅するフォトグラファーであり、今は独り身であること。フランチェスカがイタリア出身で、兵役中のリチャードに見初められて、そのままアイオワ州にやってきたこと。ロバートに勧められたキャメルをためらいなく受け取るフランチェスカ。

ローズマン・ブリッジに到着。
どうやらこの橋は、フォトグラファーのお眼鏡にかなったらしい。
撮影は明日早朝にするという。

フランチェスカの親切へのささやかな感謝の気持ちとして、ロバートは小さな野の花の花束を彼女に差し出す。冗談で恥ずかしさをまぎらせながらも、フランチェスカは心を打たれたようだ。

農場に帰ってくると、フランチェスカはロバートにアイスティーをふるまう。
彼との時間を心地よく感じてきた彼女は、さらに夕食も食べていくようにロバートを誘う。
片田舎の農場の主婦とはいえ魅力的な女性のお誘いに異存のあるはずがない。

夕食後、夜の帳が下りて、外を散策するふたり。
ロバートがふと口にした、W・B・イエーツの『さまよえるアンガスの歌』がふたりの距離を縮める。
家に戻り、コーヒーとブランデーを嗜むふたり。
やがてロバートはフランチェスカに別れを告げる。

男の去った家のなかで、フランチェスカは半分に切った紙片にメッセージを書き、車に乗って真っ暗なローズマン・ブリッジに向かう。彼女は橋の入口の目立つ位置に紙片をビョウでとめた。『白い蛾が羽を広げるとき』もう一度夕食においでになりたければ、今夜仕事が終わってからお寄りください ━━ 朝、彼はきっとこのメッセージを目にするだろう。

翌日、フランチェスカの家にロバート・キンケイドから電話がかかってくる。
彼は今夜の食事を約束し、食事の前にフランチェスカを撮影にこないかと誘う。
彼女は自分の車で撮影場所へ向かうと彼に告げる。

撮影場所でふたりが落ち合うとさっそく撮影にとりかかるロバート。
彼の助手になる喜びを隠しきれないフランチェスカ。
撮影があらかた終わると、屋根付きの橋にいたフランチェスカにロバートはカメラを向ける。
彼にとって、彼女もまた美しい被写体なのだ。

家に戻り、フランチェスカは自室のバスルームをロバートに使わせる。自分の無分別をたしなめる気持ちはもうない。

ディナーの時間。
ダイニングルームで待っていたロバート・キンケイドは、ゆっくりと現れたフランチェスカを見て息を呑む。
彼女は大胆だが品位を損ねないドレスに身を包んでいた。
己の美しさへの揺るぎない確信を相手に伝える種類のドレスだ。

ロバートの向けるまなざしは熱い。
フランチェスカもまた、男の自分への欲望に欲望する。
この瞬間、ふたりは解きがたく結びついてしまった。鮮烈に、絶望的に。

『マディソン郡の橋』感想と考察、みどころ

『マディソン郡の橋』感想・考察

世界を席巻したベストセラーを四半世紀後に味わう

『マディソン郡の橋』 ━━
小説は1993年に出版されて大ベストセラーに。当時、10代でしたが、ベストセラー本は敬して遠ざけていたので、どんな物語か知りませんでした。“世界中が涙した永遠のラブストーリー” という触れ込みから考えて、十中八九「色眼鏡」でみてしまうであろう作品の予感はしましたが。

それで四半世紀以上経った今、先入主なしで小説を楽しみ、ついで映画を楽しみました。小説は小説の良さがあり、映画は映画の味わいがあります。『マディソン郡の橋』に関しては、一方が良すぎるために一方が残念というのではなく、どちらも素晴らしい。

過去のベストセラーは楽しむためのポイントは、「四半世紀」。
25年経ってもまだ残っている作品は、時間の淘汰圧に耐えうるクオリティがある証拠だし、当時を振り返りながら、「なぜ世間はこの作品に熱狂したんだろう?」と考えながら読んだり観たりする醍醐味はまた格別。

この作品が話題になっていた頃の当時の世相や、自分の青春時代を思い出しては、意味もなく部屋の中をうろうろしたり、立ったり座ったりして落ち着かない気分になりました。(ぽっと頬を赤らめもしました)

こんな調子で、過去のベストセラー本に挑戦していくつもりです。

『サラダ記念日』『失楽園』『ノルウェイの森』『脳内革命』に、あとシドニィ・シェルダンの超訳もの ━━ これらは30年間ずっとマークしながらも、読むのをためらっていました。もうそろそろ読んでもいい頃合いでしょう。

『マディソン郡の橋』のレビューでしたね。
人を好きになる ━━ この厄介至極な感情は歓びとつらさが背中合わせですが、『マディソン郡の橋』は、つらさの豊かさ・・・、つらさの美しさ・・・を際立たせているように思います。

「不倫を美化するな」という正論を棚上げしたくなる何かがある

主人公キンケイドとフランチェスカの立場からみれば『マディソン郡の橋』は、まごうかたなき純愛ものですが、フランチェスカは人の妻。この物語は不倫の話でもあるのです。ただし、背徳という印象は怠りなく薄められていて、年代を経た葡萄酒のような芳醇な味わいがあります。

人によっては「不倫を美化するな」と色をなす作品だけれど、映画・小説ともに全世界に受け入れられた事実を重く受け止めたい。正論は正論としていったんペンディングして、しばし美しいストーリーに身を委ねてもいいかも……と思わせる何かが『マディソン郡の橋』にはあるのです。

それは何だろう???

芝居

主演ふたりのスペキュタクラーな芝居には最初から目が離せません。たっぷりと “余白” のある演技に眩惑されてしまう。

風景

野趣に富んだアイオワの田園はことのほかすばらしい。ひなびたという表現がぴったり。画面を通して、夏特有のたくましい草いきれが鼻腔を刺してきそうです。アイオワ州マディソン郡という舞台装置が、この物語をしっとりと落ち着きのある趣にしています。

悲哀

フランチェスカがキンケイドとの恋を4日間で終わらせてしまう切なさが、『マディソン郡の橋』を美しい純愛物語に昇華させたのでしょう。たしかに現実世界では4日間で終わる関係ですが、この奇蹟的な4日間はふたりのその後の半生を支え、お互いの心を領し続けたのです。ふたりは「結ばれないことで成就する愛」を生きたと言えるかもしれません。


そう考えると、『マディソン郡の橋』に対する「不倫を美化するな」という正論は ━━ まごうかたなき正論であるがゆえに ━━ いささかピントがずれてしまうのです。

せめてこの物語に浸りきる2時間だけは、正論を棚上げしたくなったとしても驚くに値しない。

一生を決めた4日間、4日間に捧げた一生

フランチェスカの遺書を通して、自分の死後、荼毘に付して橋から撒くように子どもたちに依頼します。
つまり彼女は、長年連れ添った夫と同じ墓に埋葬されるのを拒んだのです。

ふたりは二度と会うことはありませんでした。会うことはなかったけれど、たった4日間の恋が、キンケイドとフランチェスカの生の内実を決めてしまう。4日間で、ふたりは、分かちがたく結びついてしまった。絶望的に。

ふたりは4日間を至高の時間とし、その4日間に一生を捧げようとするのです。

フランチェスカはやさしくて妻思いのリチャードと穏やかな生活を送る。夫とのあいだには恋というほどの色つやはないが、人間的な温かみにあふれた家族愛は妻として母としての喜びを与えた。静かで安定した喜びを。しかし心は、キンケイドに捧げられていた。

キンケイドへの冷めやらぬ恋は ━━ それでいて実ることもない恋は、慎ましやかで物堅いジョンソン家の主婦として生きる生活のなかで、永遠に結実したのかもしれない。少なくとも損なわれることはないでしょう。

もし、フランチェスカがキンケイドとともに、マディソン郡のジョンソン家を逐電したとしたらどうなっていたか?
フランチェスカは良心の呵責に耐えられなかっただろうし、あのときジョンソン家に訪れたキンケイドを激しく憎悪したかもしれません。

キンケイドもまた、変化していくフランチェスカに幻滅するかもしれない。人間の分別を超越して理不尽に始まった恋愛は、想像もつかないカタストロフィをもたらします。

一緒になって壊れる恋もあれば、別離を選んで永遠に成就する恋もある。

去就に迷う女性の姿は世界共通

なぜ、『マディソン郡の橋』は映画も小説も世界中に受け入れられたのか?

フランチェスカの去就に迷う姿が真に迫っていたからだと考えています。

フランチェスカはすべてを捨ててキンケイドについていく ━━ そんなストーリーはロマンスとして成立しても、あまりにも底が浅く説得力も持ち得ないのです。

戦争花嫁としてイタリアのバーリからアイオワ州マディソン郡ウィンターセットにやってきたフランチェスカは、平穏・安定いう名の不自由な生活に飽き足りないものを感じていました。そんなフランチェスカにとってキンケイドの存在はあまりにもセクシーに映じたようです。「いまの人生、娘のころに夢見ていたものじゃないわ」と披瀝した言葉からも、フランチェスカの「女のさが」がうかがえる。

だが、そのままキンケイドと一緒に駆け落ちして、女の歓びを享受できるほど、フランチェスカは強くありません。彼女自身もキンケイドとの新生活の緊張に耐えていける強さが自分にあるとは思えなかった。そんな、彼女の平凡ゆえの堅実さや聡明さ、そして臆病さが、世界中の女性が共鳴したのではないでしょうか。

夫と子どもたちが帰ってきて、平常通りの生活を再開するフランチェスカ。彼女は4日間のすべてを心の奥にしまいこみ、カギをかけて、誰にも立ち入らせない領域をつくりあげ、その思い出をよすがにして生きていきます。誰も傷つけず、何も損なわれない。あの4日間のあとは、散文的で起伏にとぼしい生を送ることになります。

後年、病で無くなる前に、献身的な妻に、「お前の夢を叶えてやれなかった」と詫びる夫リチャード。夫は妻の秘め事にうすうす気づいていたのかもしれません。それでも、夫は妻に、敬意と感謝、こよなき愛情をもっていたのは間違いないでしょうが。

去就に迷いつつも、家庭を捨てず、運命の相手を心に想い続けながら生きる途を選んだフランチェスカ ━━
「ロバートとの恋は一緒にいたら続かなかった」
そう述懐する彼女の生き方は、ややもすれば非現実でだらしない不倫モノになりがちな物語に篤実なリアリティを与えています。

『マディソン郡の橋』主演俳優についてのレビュー

『マディソン郡の橋』主演ふたりについて

クリント・イーストウッド(ロバート・キンケイド)

『続・夕陽のガンマン』『ダーティハリー』のイメージが強いこの御仁が、純愛ドラマを映画化し、監督・主演までこなすなんて一驚を喫し、まごついてしまった。

『許されざる者』(1992年)を経て、映画人として円熟に達したクリント・イーストウッド。この人の琴線に触れる何かが『マディソン郡の橋』にはあったのでしょう。

原作では、やや饒舌な印象のある、ロバート・キンケイドも、この人にかかれば、「威あって猛からず」の、内面に激情と諦念を抱えた静かなる中年(初老)男性になります。個人的には映画版キンケイドのほうが、いくぶん共感しやすい。

撮影当時、還暦を過ぎたイーストウッドが52歳の主人公を演じても怪しむに足りません。
鍛え上げた肉体は若々しく、シャツから見える上腕二頭筋のたくましさは見事なもの。

どこか古風で凛とした気概をたたえた佇まいには、いっぱしの仕事をこなしてきた壮年にありがちな、むせ返るようなめんどくささは微塵もうががえない。戸の閉め方ひとつ、タオルでからだを拭う立ち居振る舞いのひとつひとつが落ち着いて品があります。

監督・主演として、冷徹に全体を目配りしながらも、フランチェスカの際立たせる身の引き方にも滋味が漂っている。
キンケイドの善良無骨な味は、クリント・イーストウッドのスマートさがなければ出せません。

貫禄や技巧で勝負せず、抑制のきいたセリフと、理知的な非言語コミュニケーションにも唸らされる。映画の最後、土砂降りの雨に頭の地肌をしたたか打たれながら、まっすぐにフランチェスカを見つめるキンケイドの姿は忘れがたい。原作にはないこのシーンを監督は撮りたかったのかもしれません。

闇や破綻をひかえめに抱えこんだロバート・キンケイドという人物を「調理」する手さばきには、イーストウッドの練達の芸を感じさせる。

メリル・ストリープ(フランチェスカ・ジョンソン)

女優として気力充実の時期の作品。
デ・ニーロと共演した『恋に落ちても』では夫以外の男性との恋の陶酔と苦悩を見事に表現したけど、今作もまた芸達者ぶりに目を見張らせるものがあります。

ツヤとハリにも不足なく、そこはかとない狂気にも貫禄は十分。
役づくりのためだろうか、腰回りもいくぶんふくよか。
熟成に届いた90年代のメリル・ストリープはどの作品も見るべきものがある。

演技や身振り大仰……というより、懐が深く、奥行きのある芝居をする芸風なのです。

当初、メリル・ストリープは原作を読んで難色を示したようだが、リチャード・ラグラベネーズによる脚本は、彼女の意を迎えたのでしょう。

映画の後半、去就に迷いあぐねて、理の伴わぬ感情を持て余す演技にはつい見入ってしまう。
愛する男への献身と支配を求めては引き裂かれ、引き裂かれては求めていく姿は哀切をきわめています。
それでいてイノセントな性情はいささかも損なわれていません。
要するに、はしたない女ではないということ。

メリル・ストリープが演じるフランチェスカには容易ならざる複雑さが加わってい、その役づくりに彼女の気概がうかがえる。

物語の前半、この人のキュートな演技とセリフが忘れられないシーンがあります。
わざわざ労を取ってローズマン・ブリッジまで案内してくれたフランチェスカに、野の花を摘んでこしらえた小さな花束を贈るキンケイド。

時代遅れかな?感謝のしるしです

ロバート・キンケイドのセリフ

それに対するフランチェスカ。

いいのよ 毒草だけど

フランチェスカ・ジョンソンのセリフ

絶句し当惑したキンケイドをよそに、フランチェスカが笑い出す。
もちろん、毒草とは含羞を隠すための冗談だけど、少女のようなフランチェスカがまぶしいほどチャーミングです。

フランチェスカは田舎の主婦らしく物堅いが、ピューリタン的な倫理観の持ち主でもありません。だからこそ、ロバート・キンケイドを深く愛したときの、女の「根太」(ねだ)のゆるみかたにはリアリティがあり、目が眩むほど艷やかなのです。

『マディソン郡の橋』はフィクションであり、大人のメルヘンではあるけれど、この4日間は世界中の誰に起っても異とするに足りない ━━ そんな不思議な説得力を持ち得るのは、メリル・ストリープの達演に深く与っています。

罪/めぐりあわせ/出来損ない~『マディソン郡の橋』コラム

『マディソン郡の橋』コラム

『マディソン郡の橋』における本物のナイスガイは、主人公ロバート・キンケイドではない。
フランチェスカの夫、リチャード・ジョンソン(ジム・ヘイニー)だ。

出演シーンが少ないため、俳優ジム・ヘイニーについては満足なレビューは書けないが、夫として父として男としての理想を体現した人物として衆目の一致するのがリチャード・ジョンソン氏その人だろう。それゆえに、この類まれなロマンスでは蚊帳の外に追いやられている。善良さの宿命だ。

『マディソン郡の橋』に限らず、あらゆるロマンスには人間性の現実にとって見過ごせない問題をはらんでいる。

「罪」だ。

ロバート・キンケイドにもフランチェスカにも「罪」の要素があるが、善良なリチャード・ジョンソンにはない。キンケイドとフランチェスカに、観客(読者)はハラハラさせられる。そう考えると、人を魅了してやまないのは、物語に底流する「罪」なのではないだろうか。

理解のある夫と思春期を迎えつつも立派に成長した子どもたちが出かけているあいだ、孤閨を守れなかったフランチェスカは倫理的には断罪されるべきだろう。心優しい農夫リチャードが可哀想じゃないか。あんまりじゃないか、フランチェスカ。

だが、主婦を一刀両断できない何かがある。
刃の切っ先が鈍ってしまう何かが、そこには、ある。

物語が進んでいくうちに、フランチェスカには責めに帰すべき理由はなく、ときとして人生に起こり得る事故、あるいは人知を超えた働きによるものと思えてくる。こういうとき使うのに便利な言葉が、「めぐりあわせ」だろう。

自分の意思ではどうにもならない「めぐりあわせ」によって、根太(ねだ)が緩んで、つい一線を踏み越えてしまう。
そんな「罪」に、なぜか人は抗し難く惹かれてしまうのだ。ロマンスが取り扱う「恋愛」は、人をして「罪」にもっとも近接させる感情ではないだろうか。

眩惑、陶酔、恍惚、妥協、嫌悪、憎悪、喪失……恋愛にはいろんな感情が含まれていて、ときに人間を狂気に至らしめる。そこに恋愛の豊かさと怖さがあるのだが。種族保存本能も一役買っているから、人間をしてそこまで駆り立てるのかもしれない。

恋愛は、美しさと醜さが表裏一体であるがゆえに、どうしようもなく惹きつけられ絡め取られてしまう。それもまた「罪」の力なのだろう。もしも、 「めぐりあわせ」によって、あやまちをおかした人がいるとしても、彼(彼女)の尊厳がただちに否定されるべきものではない。人間は「罪」や「めぐりあわせ」に翻弄される「出来損ない」だからこそ、愛おしい存在とも言えるのだから。

穏やかな幸せな人生を望むなら、アイオワ州マディソン郡ウィンターセットの心優しき、リチャード・ジョンソン氏のような存在を目指すべきなのだろう。「罪」から隔たること遠い存在ゆえに、灼けつくようなロマンスとは縁遠いが、偉大で敬意を払われるべき人である。

物語の終盤、夫と一緒の車の中で、キンケイドが乗るピックアップを前にして、フランチェスカは激しく取り乱す。

「間違っているけど、彼とは行けない」と。

そんなフランチェスカをみて当惑するものの、必死に妻の混乱をなだめ理解に努めようとするリチャードの表情を見ているうちにこちらもやりきれない気持ちになる。

もし、僕のパートナーが、フランチェスカのような内的世界を抱えているとしたら、 パートナーをあたたかく見守ってやれるだろうか? リチャード・ジョンソン氏になれるだろうか? 正直あまり自信がない。

たとえ頭では理解していても、リチャード・ジョンソン氏のようにはなれないのだ。
人間は「出来損ない」なのだから。

さいごに~『マディソン郡の橋』の動画を配信しているサービスは?

『マディソン郡の橋』が見れるのは……
  • U-NEXT
  • Amazonプライム・ビデオ
  • TELASA
  • You Tube
  • Apple TV

『マディソン郡の橋』は以下にあてはまる方におすすめです。

  • しっとりとした大人のロマンス映画好き
    4日間の愛と切ない別れを描いたこの物語は、単純明快なハッピーエンドでは飽き足りない方に鮮烈な印象を与えるでしょう。
  • 大自然の風景描写が好きな方
    映画の舞台となるアイオワ州マディソン郡。きれいに晴れ渡った夏の風景。ひかえめに風にそよぐ草花。風情漂う橋 ……。野趣豊かな映像美を堪能したい方には映像美に癒やされるでしょう。
  • 原作小説のファン
    ロバート・ジェームズ・ウォラーの原作を楽しめた人には、きわめて興味深い映像化だけでなく、新しい発見があるかもしれません。
  • うるおいが不足気味の40代・50代の方へ
    主役のふたりは中高年です。時代は文化を超えて共感できるでしょう。とくにふだんうるおいを欠きがちな方には ━━
  • クリント・イーストウッド、あるいはメリル・ストリープのファン
    監督・主演のクリント・イーストウッドファンにはおさえておきたい佳品。作家性を存分に発揮した恋愛ものです。またメリル・ストリープの艶のある演技もみごたえあり。

ぜひこの機会に、「世界中を魅了したラブロマンス」を体験してください。
感じやすい方なら、今後ご家族が留守をする4日間の過ごし方が変わるかもしれません。


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