『タクシードライバー』動画の感想※敬意を払われるべき狂気の役づくり

『タクシードライバー』(1976年)

主演:ロバート・デ・ニーロ

1976年度カンヌ国際映画祭作品賞受賞。監督マーティン・スコセッシとデ・ニーロが手を組んだサスペンスドラマ。都会の汚穢のなかで狂気に駆り立てられていく青年の姿を通して、アメリカの「病」を鮮烈に描き出す。そんな『タクシードライバー』の見どころと感想。

出典:Amazon.com
目次

『タクシードライバー』一筆感想

英雄と異常者は背中合わせ
『タクシードライバー』を見て感じた印象を筆のすさびで表現

あらすじ

26歳の青年トラヴィス(ロバート・デ・ニーロ)は、ベトナム戦争の帰還兵。海兵隊を名誉除隊後、不眠症のために夜勤のタクシードライバーの職に就く。猥雑で堕落しきった夜の街を流しているうちに、トラヴィスは激しい憎悪を募らせてゆく。

次期大統領候補パランタイン議員の選挙事務所で働くベツィー(シビル・シェパード)にアプローチしたトラヴィスはデートにこぎつけるが、彼女を傷つけてしまい振られてしまう。

日を追うごとに心が荒廃していくトラヴィスは、ある日、街で春をひさいでいる少女アイリス(ジョディ・フォスター)と出会う。どうやら「ヒモ」のスポーツ(ハーヴェイ・カイテル)にたぶらかされているようだ。憤懣と狂気がエスカレートしていくトラヴィスは、ついに極秘ルートから拳銃を手に入れ、肉体の鍛錬を開始する。

『タクシードライバー』レビュー

『タクシードライバー』(1976年)個人の評価
『タクシードライバー』(1976年)個人の評価

デ・ニーロを方向づけた作品

1976年(昭和51年)に公開。内容的に毀誉褒貶、相半ばといったところでしょうが、間違いなく映画史にインパクトを残した作品です。日本でも社会に対してある種の屈託を抱えた人々には大きな影響を与えたことでしょう。

映画の内容もさることながら、主演のデ・ニーロの演技に衝撃を受けました。デ・ニーロの才能を有効に引き出すために作られた映画のように思えてしまう。それくらい、デ・ニーロにとって青年トラヴィスはハマリ役です。

もちろん、デ・ニーロは『タクシードライバー』出演後も実に多彩な役柄をこなしていきますが、観客の側がデ・ニーロに求める作品の傾向性はある程度決まってしまったのではないでしょうか。『タクシードライバー』と同等の、いやそれ以上の刺激と、風格や重厚感の映画を求めるようになった。僕はそう思います。

デ・ニーロにとって『タクシードライバー』は、思い入れのある誇らしい作品であると同時に、厳しい挑戦と前進を余儀なくさせた作品だったのではないかと。

ベトナム戦争が剥き出しにした「誰にでもある狂気」

映画の中でトラヴィスは、パランタイン議員を拳銃で狙撃しようと企みます。その動機については映画の中では詳しく明かされていません。あるいは、ベツィーにフラれた腹いせかもしれませんが、それだと動機が単純すぎるようです。

監督マーティン・スコセッシの狙いはこうだったのかなと僕は考えています。誰とも心を通わせることなく妄想と狂気に傾斜し、暴走していくベトナム帰還兵の青年の姿を通して、当時のアメリカが抱えていた「時代の病」を浮き彫りにしたかったのではないか、と。

決行する日に、トラヴィスがモヒカンカットにしたのもベトナム戦争が残した爪痕を感じさせます。「ベトナムでは重大な特殊任務を遂行する兵士はモヒカンにした」という逸話を聞いた監督が、トラヴィスの狂気をどぎつく演出するために取り入れたそうです。

スコセッシ監督にアメリカを告発するつもりがあったのかどうかまではわかりませんが、あのモヒカンは、ベトナム戦争が剥き出しにした「誰にでもある狂気」の象徴のように思います。

退廃的な香気の漂う音楽が、映像とほどよく馴染んでいる

『タクシードライバー』のオープニングは印象的です。モワッとした白い蒸気の煙が吹き出している中から、タクシーが現れるシーンから始まります。そしてデ・ニーロの目のアップになって、バーナード・ハーマン作曲の「メイン・タイトル」が流れる。

あの退廃的な香気が漂ってくる音楽は、どぎついネオンがにじむ夜の都会にぴったりです。終盤の衝撃的なシーンにもハーマンの音楽が効果的に使われていて、映像のもつ凄みを引き出すことに成功しています。

不思議なんですが、『タクシードライバー』の音楽を聴くたびに、おとなしく守りに入ろうとする自分を叱咤し、世間の支配的な価値観や常識に正面切って立ち向かいたい気分にさせられるのです。「謀反気」を起こさせるといいましょうか。

偏向した正義

トラヴィスは、年端も行かぬアイリスを救い出すために、ヒモであるスポーツや元締めを粛清しようとします。彼の考える正義のためです。しかし「正義」というには、トラヴィスから健全な精神がまるで感じられません。むしろ偏執狂的で、病的な、暗い荒みのようなものしか感じられない。

スコセッシ監督は『タクシードライバー』で、異常者による、偏向した正義を表現したかったのでしょうか。(スコセッシ自身も、不貞を犯した妻を殺そうとする、狂気に駆られたタクシー乗客として出演。裏切った妻を殺すことも、偏向した正義の行使と言えるかもしれない)

そう考えると、偏向した正義をふりかざすトラヴィスとは、「ベトナムの共産化を防ぐことが正義」という口実で軍事介入して、やがて疲弊し、泥沼化し、正義が偏向していったアメリカそのものを象徴する存在かもしれません。

『タクシードライバー』のキャストについて

トラヴィス(ロバート・デ・ニーロ)

この映画では、「デ・ニーロ・アプローチ」という役作りの真骨頂がうかがえます。

とくに背筋が寒くなったのは、モヒカンにしたあと、アイリスを救い出すためにタクシーに乗ってスポーツの元に向かうシーン。明らかにトラヴィスの目はイッてしまっている。自分が狂気に陥っていることがわからない人の目は恐ろしいものがあります。恐ろしいし、あまり共感もできないけれど、この人が映画の主人公なのだから困ってしまう。観客は、明らかな異常者が活躍することを期待するしかないのですね。

きわめつけは、デ・ニーロの二度見。
映画の最後に見せた二度見は一生忘れられません。
トラヴィスは正気を取り戻し、万事めでたしめでたしで終わるのかと思いきや、タクシーのバックミラーを強烈に二度見します。射すくめるような眼光です。そこにはどんな意味がこめられているのでしょう?

様々な解釈がありますが、あの二度見は「俺はまだ狂気の中にいるんだよ」という意味が込められているように僕は考えています。まだ異常者のトラヴィスを見て、戦慄が走ったと同時に、「そうこなくっちゃ!」と会心の笑みを浮かべてしまいました。

アイリス(ジョディ・フォスター)

撮影当時12歳だったフォスターは、夜の街に立つプロスティチュートを体を張って熱演しています。この罰当たりなキャスティングは、日本ではまず不可能でしょう。子役でありながら、すでに貫禄があります。芝居がこなれているのです。ためらいなくアイリスになりきっている。

本人がそれをやろうと思えば緻密な演技もできるけれど、あえて勢いと奔放な少女らしさを選んでいるように見えます。表情に大げさなところがなく、子役にありがちな有能さをことさらアピールすることもありません。しおらしくかしこまったりすることもない。

そんな天才子役は、やがて大人の知性派女優へと成長を遂げます。1988年に『告発の行方』で、1991年には『羊たちの沈黙』でアカデミー主演女優賞を獲得。この人は役者としての天稟に恵まれていますが、才能に呑まれず、うまくハンドルするために相当な努力を払っているように思います。

『タクシードライバー』作品情報

監督マーティン・スコセッシ
脚本ポール・シュレイダー
撮影マイケル・チャップマン
音楽バーナード・ハーマン
出演・トラヴィス・・・ロバート・デ・ニーロ
・アイリス・・・ジョディ・フォスター
・ベツィー・・・シビル・シェパード
・スポーツ・・・ハーヴェイ・カイテル
・ウィザード・・・ピーター・ボイル
・トム・・・アルバート・ブルックス
上映時間114分
ジャンルサスペンス
まめやかコラム

【コラム】その道の偏執狂=一流のプロフェッショナル

『タクシードライバー』のロバート・デ・ニーロを見ているとこう思います。
「すべての一流・プロフェッショナルは偏執狂かもしれない」と。

こう書くと、「偏執狂だなんて、一流の人たちに失礼だろ!」と青筋を立てて怒る人もおられるでしょう。たしかに偏執狂という言葉のイメージは悪いかもしれません。ちょっと異常者っぽい響きが感じられますからね。

しかし、その分野のことが好きで好きでたまらなくて、徹底的に執着してマニアックになった人が、結果的に一流として活躍しているのではないでしょうか。

ロバート・デ・ニーロは俳優として、名実ともに一流のプロフェッショナルです。その理由は、「そこまでやるの!?」と、観客がたじろいでしまうほどの偏執的な役づくりにあります。

『タクシードライバー』の有名な逸話を紹介しましょう。
主人公トラヴィスはアメリカ中西部出身のために、デ・ニーロは撮影前に中西部の人について「なまり」を習得。さらに約1ヶ月間、タクシー運転手として勤務して、ドライバーとして自然な立ち居振舞いを身に付けています。だからこそ、トラヴィスには凄まじいリアリティがあるのです。

もちろんデ・ニーロは『タクシードライバー』だけ特別扱いしたわけではありません。この人は、すべての作品の役柄に対してオールアウト。全力でなりきるのです。

『ゴッドファーザーPARTⅡ』(1974年)では、若き日のヴィト・コルレオーネを演じるためにシチリアで1ヶ月間暮らしています。まさに「環境が人をつくる」という俚諺を、そのまま体現したかのように。自然なシチリアなまりを身に着けたデ・ニーロは、この作品でアカデミー助演男優賞を獲得しています。

『レイジング・ブル』(1980年)では、激しいワークアウトでボクサー体型に仕上げたあと、晩年の自堕落な主人公を演じるために、美食三昧の日々を送り、体重を28キロも増やしました。28キロ!これは並大抵ではない肉体改造です。この作品で、デ・ニーロはアカデミー主演男優賞を獲得しています。

ことほど左様に、デ・ニーロの役づくりにかける執念は「異常」です。偏執的といっても過言ではありません。しかも役づくりを心の底から楽しんでいるように見える。「他人の人生を演じることが好きで好きでたまらない」という、役者にしか体験できない愉悦がひしひしと感じられます。

好きだからのめり込む。のめり込むから偏執する。偏執するからいつの間にかその道の一流として認められるようになる━━ この循環は程度の差こそあれ、どんな分野・職種にでも言えるのではないでしょうか?

主人公トラヴィスによる「正義への偏執」のイメージは、役者ロバート・デ・ニーロの「役づくりへの偏執」と重なります。もっともこの偏執は、「デ・ニーロ・アプローチ」という呼び名で敬意を払われていますが。

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