『続・夕陽のガンマン』(1967年)
主演:クリント・イーストウッド
『続・夕陽のガンマン』感想・考察。 『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』に続き、監督セルジオ・レオーネ✕主演クリント・イーストウッドのマカロニ・ウエスタン第3作。善玉・悪玉・卑劣漢の三者が裏切りと駆け引きを繰り返しながら、隠された20万ドルをめぐって、冒険と闘いを繰り広げる娯楽大作。そんな『続・夕陽のガンマン』感想と考察、見どころをご紹介。
- 『続・夕陽のガンマン』のあらすじは?
- 感想・レビューはどう?
- 『続・夕陽のガンマン』のみどころは?
- 登場人物・キャストの魅力は?
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『続・夕陽のガンマン』一筆感想
『続・夕陽のガンマン』のあらすじ
南北戦争の真っ只中、ブロンディ(クリント・イーストウッド)は、テュコ(イーライ・ウォラック)と組んで、「賞金稼ぎ」でひと儲けしていた。そんな折、20万ドルの金塊を隠した南軍兵士の死に際に出会ったブロンディは、隠し場所を聞き出す。こうなるとトゥーコも黙っていられない。
ブロンディとトゥーコは互いに欺いたり駆け引きしたり出し抜いたりしながら、20万ドルの「お宝探し」に繰り出すが、そこに南軍兵士を追跡していた殺し屋エンジェル(リー・バン・クリーフ)も加わり、物語は波乱含みの展開をみせる……
※ちなみに、『続・夕陽のガンマン』というタイトルですが、前作の『夕陽のガンマン』とはストーリーにつながりはありません。本作から見ていただいても十分楽しめるでしょう。
『続・夕陽のガンマン』レビューと考察
食わず嫌いは損!「マカロニ・ウエスタン」の面白さを堪能できる作品
映画評論家・淀川長治氏が命名した「マカロニ・ウエスタン」。
「イタリア製の古さくてチープな西部劇でしょ?」という先入観から敬遠する人もいますが、食わず嫌いはもったいないです。たしかに多くのマカロニ・ウエスタン作品は、本家アメリカ西部劇に比べると見劣りしますが、『続・夕陽のガンマン』は数少ない例外です。
あまりにも面白くて、この作品を見てからというもの、並の西部劇には飽き足らなくなってしまいました。
『続・夕陽のガンマン』は、本家アメリカ製西部劇の作劇では出てこない、「地べたからのむせかえる雑駁さ」が、こよなき魅力になっています。なにしろ、これまでの西部劇で造形されたヒーローは登場しません。「マカロニ・ウエスタン」でなければ造形できない、人間臭くて面白いキャラクターたちが登場して、ワクワクさせられるのです。
監督セルジオ・レオーネの演出には八方破れな味があり、お行儀の良い勧善懲悪な物語を粉微塵に破壊するパワーが感じられます。どこまでも骨太なつくりで、娯楽性も芸術性も兼ね備えた作品に仕上げているのです。
一度口にしたマカロニの味、けっこうヤミツキになる人は多いかもしれません。
善玉・悪玉・卑劣漢……アクの強い、三つ巴の闘い
『続・夕陽のガンマン』の原題は、『The Good, the Bad and the Ugly』。訳すると「善玉、悪玉、卑劣漢」です。この三者の主人公が20万ドルのお宝をめぐって、丁々発止、三つ巴の闘いを繰り広げるのですが、これが良い意味でアクが強くて、3時間の上映時間も飽きさせません。
いちおうクリント・イーストウッドは「善玉」らしいですが、それにしてはあまりに自由で、野心と欲に忠実に生きる人間として描かれています。となれば、「悪玉」のリー・ヴァン・クリーフや「卑劣漢」のイーライ・ウォラックが凡庸なキャラクターなわけがない。おもしろくないわけがないのです。個性的でエッジの尖って、そこそこワルな三者がからみあうのですから、そこから生まれるユーモアも黒くなるのは理の当然。刺激もめっぽう強い。
圧巻は、ラストの三つ巴の決闘シーンです。善玉・悪玉・卑劣漢が3すくみで勝負しようとする俯瞰した光景は、強く脳裏に焼き付いて忘れられません。個人的には映画史に残る名場面だと思っています。
神々しさと猥雑さがブレンドされた音楽に陶酔
『続・夕陽のガンマン』が、娯楽映画として抜きん出ているのは、神々しさと猥雑さが見事にブレンドされた高い音楽性に深く与っていると思います。音楽担当は、エンリオ・モリコーネ。言わずと知れた映画音楽の巨匠です。
映画が始まってすぐ流れてくる、「アァアァアァ~」という声に、まず度肝を抜かれるでしょう。コヨーテの遠吠えを取り入れたこのオープニングタイトルは、一度聞いたら、耳にこびりついて離れません。宗教的な神々しさと世俗の猥雑さがほどよい塩梅で調和していて、聴衆を心地よく酔わせる悦楽のツボを捉えています。どうしてこんなにカッコよくて、劇的で、力強くて、もの悲しい音楽が作れるのだろうと感心してしまう。
終盤の、三つ巴の決斗シーンで流れる「The Trio(原題)」も一聴の価値があります。イーストウッド、ヴァン・クリーフ、ウォラック、三者の苦み走った表情と、彼らの汗ばんだ手で握る銃が、クロスカットしていきながら、音楽が助勢してさらなるスリルと緊張感を高めていく。
セルジオ・レオーネとエンリオ・モリコーネ、才走ったふたりの芸術家の幸福なコラボレーションがなかったら、『続・夕陽のガンマン』は名作として映画ファンの記憶には留まらなかったかもしれません。
『続・夕陽のガンマン』のキャストについて
ブロンディ(クリント・イーストウッド)
37歳のイーストウッド、なんともいえない渋さを漂わせています。葉巻を口の端にくわえつつ、まぶしそうに目を細めて、含み笑いを抑制した風情は、クールで凛々しい。端倪すべからざる男です。この人は、『ダーティハリー』の印象が強いですけれど、現代的なスーツよりも、汚れたハットにポンチョ、ウェスタンブーツ姿の方がサマになります。
ブロンディは、野心も欲望もあるけれど、人前では卑しさを出しません。善人とは言い難いけれど、欲望への反応を理性で抑えるだけの節度を持っています。クリント・イーストウッドが脊髄反射して、右往左往して慌てふためく姿は、うまく想像できません。
危機に陥っても思慮深さを失わず、まぶしそうに目を細めて、最低限の台詞だけにとどめて、あとはたたずまいで語る━━ イーストウッドのこの芸風は、『続・夕陽のガンマン』を含めた三部作で確立したようです。
エンジェル(リー・ヴァン・クリーフ)
この人を見るたびにいつも感心してしまうのです。「いい顔してるなぁ……」と。存在感も並大抵ではありませんが、表情だけで観客を釘付けにできる役者です。『真昼の決闘』で悪役フランク・ミラーの仲間を演じていた頃のリー・ヴァン・クリーフにはそれほどのインパクトはありませんでした。まだ悪役に徹しきれていない迷いのようなものがうかがえたのです。
それから悪役や脇役のキャリアを重ねていくうちに、この人のスタイルが決まったのかもしれません。1965年『夕陽のガンマン』では、素晴らしい円熟の演技を見せています。今作のエンジェルも、怜悧で抜け目ない「悪玉」を粛々と演じています。
そういえばリー・ヴァン・クリーフは、1980年代サントリーオールドのCMに起用されました。大人の渋さを体現したこの人に、サントリーオールドは実によく似合う。最近ではこういう枯れた味のある俳優に、静かに語らせるCMが少ないのが残念でなりません。
トゥーコ(イーライ・ウォラック)
いつもギラギラして欲望に突き動かされる、「卑劣漢」、トゥーコをケレン味たっぷりに演じています。下卑た悪党とはいえ、なにげない言葉のなかに輝くようなエスプリがうかがえて、なぜかこの人を嫌いになれません。なぜか敬意を払ってしまうのです。イーライ・ウォラックという人の品の良さは隠せないのかもしれない。
善玉・悪玉・卑劣漢、この三者のなかでは、卑劣漢演じるウォラックがもっとも役者として器用なのかなと。ブロンディとトゥーコの掛け合いは、見事なほど呼吸がぴったりなんですが、もしかしたら、ウォラックの方がイーストウッドに合わせているのかもしれません。
トゥーコの表情はとりわけ鮮烈な印象を残します。トニーノ・デリ・コリのカメラは、欲に目がくらんだトゥーコの表情をいちいちアップにするものだから、つい笑ってしまうのですが、笑った後に自分の中にも欲望に翻弄される弱さがあることを思い知らされて、恥ずかしい気持ちにもなります。
イーライ・ウォラックは、後年『ゴッドファーザー PART III』に出演。より複雑な卑劣漢「ドン・アルトベッロ」役で素晴らしい演技を見せています。まごうかたない名優です。
『続・夕陽のガンマン』作品情報
監督 | セルジオ・レオーネ |
脚本 | ・ルチアーノ・ビンチェンツォーニ ・フリオ・スカルペッリ ・セルジオ・レオーネ |
撮影 | トニーノ・デリ・コリ |
音楽 | エンニオ・モリコーネ |
出演 | ・ブロンディ・・・クリント・イーストウッド ・エンジェル・・・リー・ヴァン・クリーフ ・トゥーコ・・・イーライ・ウォラック ・ウォレス伍長・・・マリオ・ブレガ |
上映時間 | 178分 |
ジャンル | マカロニ・ウエスタン/アクション |
ひとりの人間の中にいる「善玉・悪玉・卑劣漢」
『続・夕陽のガンマン』の人間観は、忖度なしのリアリティがあって、好感が持てます。ひと言で言えば、ひとりの人間の中に「善玉・悪玉・卑劣漢」が存在するという人間観です。これはどういう意味か?
『続・夕陽のガンマン』の中では、、、
- 善玉・・・ブロンディ
- 悪玉・・・エンジェル
- 卑劣漢・・・トゥーコ
と、明快にキャラクター分けがされていました。
とはいえ、映画をご覧になればわかるとおり、単純に人間の性質・属性を決めつけることはできません。ブロンディが完全な善玉の人物なら、『続・夕陽のガンマン』は凡庸なマカロニ・ウエスタンの評価を受けていたでしょう。
エンジェルも、トゥーコもしかり。完全な悪玉ではないし、完全な卑劣漢ではありません。それぞれの人格の中に、「善玉・悪玉・卑劣漢」が存在し、目まぐるしく移り変わっています。善悪や正邪がまだらになって共存しているからこそ、それぞれの人物の陰影が豊かで生彩を放っているのです。
この人間観は、フィクションに限ったことではなく、現実に生きる人間の中にも「善玉・悪玉・卑劣漢」は存在しているのではないでしょうか。人間は、ひとつの人格に固定されているわけではなく、悪や卑劣な部分も併せ持っています。その勇気ある自覚から、悪や卑劣を克服する途が拓けるのではないでしょうか。
『続・夕陽のガンマン』の登場人物たちがたびたび口にする有名な台詞を借りますが、、、
「人間には2種類」あります。
自分を「善・悪・卑劣」のいずれかと決めつける人と、自分を「善・悪・卑劣」すべて内包した不完全な存在だと認められる人です。後者の方が、人として誠実な生き方だと思うのですが、あなたはいかがお考えでしょう?
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