『お早よう』(1959年)
主演:笠智衆/佐田啓二/久我美子
小津安二郎監督第50作。かわいらしくゆるやかなホームコメディ。舞台は戦後の小さな集合住宅地。「組長さんに婦人会の会費を渡した、渡してない」だの、「白黒テレビを買う、買わない」だの、さしたる事件らしい事件は起こらない。でもなぜか見ているだけで心が洗われるような作品。やさしいノスタルジーに浸れる『お早よう』の魅力をご紹介。
- ゆるくてやさしい世界に浸りたい方
- 1950年~1960年頃の日本人の生活様式に興味のある方
- 昭和のホームドラマに関心のある方
- これまで小津安二郎作品を見たことがない方
『お早よう』の動画を視聴しての感想
起伏なきがゆえの「優美さ」
タイトルバックは目の粗い厚手の布地。BGMは格調高いモーツァルトの交響曲41番《ジュピター》かとおもいきや、全身から力が抜けるような曲調に転じて物語は始まる。巨匠・小津安二郎監督の作品のなかでは、軽やかで可愛らしい小品といえるだろう。
不思議なのは、自分がまだ生まれていない時代なのにノスタルジックな心情に切々と訴えてくるところだ。小津の映像魔術によるものだろうか。驚きたるやない。
『お早よう』は、特筆すべき大きな事件も起こらず、ドラマチックな展開もない。俳優たちも心理描写や内面表現を自重しているかのように見える。ドラマとしては総じて起伏に乏しい。にもかかわらず最後まで見届けてしまうのは、たおやかに時間が流れるからだ。起伏がないことで映画はなめらかに進んでゆく。そこにこの映画の「優美さ」があると思う。
何気ない日常を完璧に映し出すための異常なこだわり
この映画の仕掛けを知りたくて細部を吟味してゆくと、監督の異常なまでの映像へのこだわりを発見することになる。そこには、まごうかたなき小津安二郎の「小宇宙」が現出していて思わず息を呑む。
登場人物たちの着物、家具、雑貨の意匠や柄はとことん吟味されて選ばれているようだ。組み合わせや配置の仕方も美的見地から精密に計算され尽くしている。昔ながらの「和」のテイストに「モダン」がお行儀よく自己主張しつつ、やさしく溶けあうことで醸し出される滋味。
すべてが本来あるべき位置に配置され、ずれやひずみは慎重に取り除かれている。だから見ていてストレスがない。淀みなくゆったりと映像が移ろってゆく。結句、すこぶる心地よい。
”オナラの滑稽美” によって生み出される、楽園的でふくよかな雅趣
『お早よう』に登場する子供たちの間で流行っているのが「オナラ遊び」。
彼らは、軽石を粉状にしたものを飲むと、闊達自在に放屁できると信じている。
けったいな子供たちだ。
彼らは始終「ぷぅぷぅ」やっては得意がり、得意がっては「ぷぅぷぅ」しているが、下品な様子はまったくない。人工的な放屁音は、滑稽で奥ゆかしさすら感じられるから不思議なものである。
『お早よう』はオナラで彩られた映画だけあって、登場人物たちが対立したり問題が起こっても、さしたる緊張感は生まれない。ある人物が怒り心頭に発しても、情念が排除されているから、牧歌的で柔和な風情がある。
小津安二郎がオナラにどういう狙いを持たせたのかはわからないけど、BGMとは成り立ちの異なる「作品世界を精彩豊かにするための効果」として機能しているように思う。小さな集合住宅地が楽園的でふくよかな雅趣をたたえているのは、ひとえにオナラによるものだ、と言ったらお叱りを受けるだろうか……
『お早よう』のキャストについて
福井平一郎(佐田啓二)
『お早よう』はストーリー性が希薄なため、誰が主人公なのか判然としない。その中でも、控えめだけれど落ち着いた存在感を発揮している佐田啓二を最初に取り上げる。
かっちりしたハンサムという形容がぴったりの俳優。だが、「人間、いつなんどき崩れて逸脱しても、なんら不思議はない」といった危うさを抱えたハンサムだと思う。
福井平一郎という人物は、一見クールで知的な男性だけれど、ナイーブでひたむきなものを抱えた好青年であることは容易に想像できる。彼が子どもに英語を教えているシーンで、林家の兄弟に呼びかけるときの「おい!」が、なんともやさしい。ありったけの力をこめて搾っても搾り取れないほど、そこにはこまやかな情愛が含まれている。
きょうび、この感動詞は威圧的に響きやすいし、うかつに使用したら「パワハラ」なんて指摘を受けそうだけれど、福井平一郎の「おい!」は穏当でみずみずしい。子どもを全肯定しているのである。
有田節子(久我美子)
なんだろう、この人のこの爽やかさは…。この涼感は…。
久我美子を見ていると、からりと晴れた日曜日の朝に干して、正午過ぎにはすっかり気持ちよく乾いている洗濯物を取り込んでいるような心持ちになる。
これは小津作品全体に言えることだろうけど、女優のひとつひとつの所作は流麗で、言葉づかいが美しい。” 言葉にされない言葉 ” ですら美しいのだ。華美というより、余分な飾りをひとつひとつ払い落としたミニマルな美しさのように感じる。銀幕で映える類まれな美しさだからこそ、小津安二郎はじめ多くの映画人に愛されたのではなかろうか。
林敬太郎(笠智衆)
一言で語り尽くせない俳優である。「いぶし銀」という形容で片付けるには、あまりにも失敬であるような気がする。「昭和を代表する名優」という表現で片付けるには、あまりにも紋切り型であるような気がする。ではどう表現すればいいだろう。
俳諧的なおもむきのある俳優……と言えばいいだろうか。
笠智衆は余人をもっては替えがたい芸風を確立している。『お早よう』のなかでは勤勉で誠実な父を演じているけれど、この素朴な味わいを出すために、笠智衆はどれほどの粒粒辛苦の研鑽を重ねたのだろう。どれほどの葛藤や相克を潜り抜けたのだろう。それを思うと、畏敬の念を禁じえない。
この俳優の、器用とは言い難い ” 存在のもどかしさ ” のようなものを小津安二郎は深く慈しんだのではなかろうか。そしてこの俳優の ” 枯れ方 ” に、敬意を表したのだと思う。
原口きく江(杉村春子)
どの町内にも必ず一人は存在する、うるさ型の奥さんをちゃきちゃきの存在感で演じている。役者道に殉ずることを決めた人間の迷いのなさが演技にも表れていて、有無を言わさせない一徹の説得力では人後に落ちない。
場合によってはどんな役者とも火花を散らすことを辞さない覚悟がみなぎっているが、明敏さと思慮深さも併せ持っている女優だ。隅々にまで目が行き届いているような演技を見てそう思う。
『お早よう』作品情報
監督 | 小津安二郎 |
脚本 | ・野田高梧 ・小津安二郎 |
撮影 | 厚田雄春 |
音楽 | 黛敏郎 |
出演 | ・福井平一郎・・・佐田啓二 ・有田節子・・・久我美子 ・林敬太郎・・・笠智衆 ・林民子・・・三宅邦子 ・原口きく江・・・杉村春子 ・富沢汎・・・東野英治郎 ・福井加代子・・・沢村貞子 ・大久保善之助・・・竹田法一 ・大久保しげ・・・高橋とよ ・林実・・・設楽幸嗣 ・林勇・・・島津雅彦 |
上映時間 | 93分 |
ジャンル | ホームドラマ |
ストーリー
舞台は1950年代の神奈川県川崎市。長屋のように小さな住宅が集まってそれぞれの家庭がつつましく暮らしている。ここに住む主婦たちは婦人会の会費めぐって小さないざこざを起こし、子供たちはおでこを押してオナラを出して得意がるという遊びに興じていた。
林家の家族は、父・敬太郎(笠智衆)、母・民子(三宅邦子)、民子の妹・有田節子(久我美子)、長男・実(設楽幸嗣)、次男・勇(島津雅彦)という構成。節子が勤める会社では、実や勇に英語を教えるフリーランスの福井平一郎(佐田啓二)に翻訳業務を委託している。福井との書類の受け渡しを担当しているのが節子だ。ふたりはあたりさわりのないの世間話を交わす間柄だが、お互い好意を抱きあっている。
最近、主婦たちは、ある問題に手を焼いていた。この界隈で唯一テレビを所有している丸山家に、子どもたちが集まって相撲を観戦し、勉強がすっかりお留守になっているのである。林家の父母が息子たちに注意すると、彼らは「テレビを買ってくれ!」とゴネはじめ、ついに……
意味/無意味を超えたところにある、言葉の豊かな広がり~『お早よう』コラム
おはよう・こんばんは・こんにちは・いいお天気ですね……
挨拶すると気持ちがいいものです。
挨拶言葉自体には深い意味がないのかもしれませんが、その意味がないところに、” 大きな意味 ” があるのではないでしょうか。「あなたが存在することを認めていますよ」「あなたが今日も元気でいてくれて嬉しいですよ」という ” 言外のメッセージ ” が挨拶に込められるわけですから、挨拶には余計な意味がないほうがいいのかもしれない。
『お早よう』の中で、忘れがたいセリフがあります。
「テレビを買ってくれ!」と催促する林家の兄弟に、父・敬太郎は余計なことばかり言うなと一喝。子どもは屁理屈をこねて反論します。「『余計なこと言うな』って言うけど、大人だって言うじゃないか、おはよう・こんばんは・こんにちは・いいお天気ですねって」
節子からそのエピソードを聞いた福井はこう感慨をもらすのです。
「そんなこと案外余計なことじゃないんじゃないかな」
「それ言わなかったら世の中 味もそっけもなくなっちゃうんじゃないかな」
「無駄があるからいいんじゃないかな、世の中」
「たしかに!!」と頷くことしきりでした。
挨拶の言葉は、世の中を動きをなめらかにし、淀みなく回転させるための、「美しい無駄」ではないだろうか、と。
そんな福井を見ていて、いささかくすぐったい気持ちにさせられるのは、彼が好意をもっている節子には「美しい無駄」ばかり積み重ねて、お互いの関係を発展するための決定的な言葉だけは言わないからです。
物語の後半、八丁畷駅で、福井と節子はぱったり出合います。
「いいお天気ですね」
「ほんといいお天気」
「2,3日は続きそうですね」
「そうね、続きそうですわね」
「ああ、いいお天気ですね」
「ほんといいお天気」
・・・と、ここでも「美しい無駄」を積み上げているのです。
意味のない言葉を交わしあうことで、言葉にならない想いをふたりで育みあっているかのように。あるいは、” しんじつ ” な思慕の念を表現するのに、言葉という手段はいささか頼りないのかもしれませんね。
いずれにせよ、若いふたりが「美しい無駄」を積み上げるこの光景は、類まれな美しいシーンです。” ロマンス ” というにはあまりにも清々しすぎるその光景に、思わず深く頭を垂れてしまいました。さしもの子供たちが放つ愉快なオナラの音もここには届きません。
言葉というのは意味がありそうでほとんど意味がなかったり、意味がなさそうで深い意味がこめられていたり……額面通りにはいかないところがあります。
そこでです。
意味/無意味を超えたところにある ”言葉の豊かな広がり” に目を向けてみる。そうすれば、これまで見落としていた発信者の ” しんじつな想い ” に気づくことができるかもしれませんね。
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