『恋におちて』(1984年)
主演:ロバート・デ・ニーロ/メリル・ストリープ
名作『逢びき』(1945年・イギリス映画)を下敷きにした大人の恋の物語を、ロバート・デ・ニーロとメリル・ストリープが熱演。誰にでも起こり得る、恋の甘美と残酷さを切々とうたいあげた恋愛ドラマ。お互い既婚者であるにもかかわらず、どうしようもなく惹かれ合うふたり。名優ふたりの苦悩や葛藤を表現する演技にも注目。
- 既婚者の恋愛ものに興味のある方
- 1980年代独特の、なつかしい艶のある雰囲気に浸りたい方
- 道ならぬ男女関係について自分の考えを深めたい方
『恋におちて』動画を視聴しての感想
「不倫の賛美」がテーマではない
人によってはこの映画の登場人物にまったく共感できないかもしれません。
「いくらロマンスとはいえ、不倫を美化するってどうよ!」と不快感で顔を歪める人もいるでしょう。もちろん、僕も不倫を肯定するわけではありません。ですが、「不倫はダメ!」と拒絶した時点で、せっかくの考察の機会をフイにしてしまいます。
この物語の底流にあるメッセージは「不倫の賛美」ではありません。監督の意図はそうではないと思うのです。理性では割り切れない恋慕の情の狂おしさ。一筋縄ではいかない人間の不合理。それらを描き出すうえで、「道に外れた既婚者同士の純愛」という主題はそれほど道に外れていないように思います。
文学作品や映画だからこそ、まっすぐに切り込んでいけるテーマではないでしょうか。
恋の ”動詞表現” について考えさせられる
この映画を見終えて、恋のあとに続く動詞は、 ” する ” のではなく、 ” おちる ” ものなのだと深く感じ入ってしまいました。フランクもモリーも、まっとうな社会人であり、どこにでもいるふつうの人たちです。不健全な依存体質であるとか、性格が破綻しているといったことはありません。
にもかかわらず、どうしようもなく ” おちて ” しまうのですね。
お互いすでにパートナーがいる身。相手への特別な感情を抱いてしまうのは、明らかに道に踏み外している。そのことはわかっている。でも、抗えない。どうしようもない。そんなどうしようもない葛藤や心の機微をしっとりと表現しながら、 ” おちた ” 男女が織りなす愛のかたちを観客にまざまざと見せてくれる。
既婚者の恋愛の功罪とは別の観点で、ふたりの成り行きを最後まで見届けたくなるのです。
誰にでも ” おちる ” 可能性がある
フランクの妻アンは、典型的な良妻賢母で聡明な女性です。彼女はフランクの変化を見逃しません。妻に問い詰められたフランクは、「電車で女性に会った。何もしていない、何もなくすべて終わった」とありのまま告げます。それに対する妻の言葉はあまりに重い。「そのほうがもっと悪いわ」。これほど重苦しく響く言葉はそうそうお目にかかれません。
多くの人はアンの側に立つでしょう。不倫が発覚した以上、もはやフランクに弁明の余地はないからです。でも個人的には、フランクとモリーのような、 ” おちて ” しまった人たちを責めたくないと感じました。
自分が、モリーの夫の立場でも、━━ ものすごく悲しいですが━━ 相手を責めたりしません。そんなことをしても何も変わらないですよね。ショックのあまり一週間(場合によっては一ヶ月)くらい寝込んでしまうかもしれませんが。
ひとつ確実に言えるのは、相手が前非を悔いてやり直しを求めてきても、「それはできない」と冷静にお断りするということ。相手は責めないけど、やはり修復のきかないことが人生にはあるからです。
それはさておき、不倫にかぎったことではありませんが、ときとしてぽっかりと口を開く「人生の陥穽」を前に、誰しも ” おちて ” しまうことはあります。そこでは理性や道理というのはほとんど無力です。
僕が「誰にでも、フランクとモリーのように ” おちる ” 可能性があるんだよ」と言うと、「そんなことあるわけないだろ!」と青筋立てていきり立つ人がいますが、ふつつかな私見では、そういう人ほどよっぽど怖い。むしろ、「たしかに、 ” おちる ” 可能性があるかも…」と、自分ごととしてクールに受け止められる人ほど、「人生の陥穽」をなんとか乗り越えることができるように思います。
『恋におちて』のキャストについて
モリー(メリル・ストリープ)
夫以外の男性に心惹かれてしまう女性は、つい大味な演技になってしまうという意味で、難しい役柄だと思います。
でもメリル・ストリープは違いますね。
なかには「これ見よがしな力演」という印象を持つ人もいるかもしれませんが、メリル・ストリープによる色づけは、『恋におちて』の精妙なトーンにほどよく溶け込んでいるように感じました。
含羞を抱えたままも、柔らかい激しさをもって、フランクへの恋慕の情を募らせていく様子に思わず引き込まれてしまう。
モリーには、夫とのあいだに子どもが生まれるも数日後に亡くした悲しい過去があります。その屈託や陰影が、繊細な優美さと官能のほてりを際立たせているかのようです。
それにしてもこの頃のメリル・ストリープの演技には一見の価値があります。『プラダを着た悪魔』の彼女を見たあと、『恋におちて』を鑑賞すると、なんとも不思議で感慨深いものがありました。
フランク(ロバート・デ・ニーロ)
俳優として地歩を固め、脂ののりきった芸風を見せるデ・ニーロ。
『恋におちて』の役柄は真面目な建築技師ですから、ぎらぎらした狂気は抑えられていますが、艶を消しても、そこはかとない男の色気がにじみ出るところに、この人の非凡さが際立っていました。
しっかりためのある演技で、” おちて ” しまった男の激しい葛藤がこちらにも切々に食い込んでくるかのようです。
この映画でも、「デ・ニーロ・アプローチ」は冴え渡っています。
『恋におちて』作品情報
監督 | ウール・グロスバード |
脚本 | マイケル・クリストファー |
撮影 | ピーター・サシツキー |
音楽 | デイブ・グルーシン |
出演 | ・フランク・・・ロバート・デ・ニーロ ・モリー・・・メリル・ストリープ ・アン・・・ジェーン・カツマレク ・エド・・・ハーベイ・カイテル ・イザベラ・・・ダイアン・ウィースト |
上映時間 | 106分 |
ジャンル | 恋愛 |
あらすじ
クリスマスを間近にひかえたマンハッタンの書店で、お互い既婚者のフランク(ロバート・デ・ニーロ)とモリー(メリル・ストリープ)は家族への贈り物を買う。混雑した店内でふたりは偶然ぶつかった拍子に、互いの贈り物を間違えてそのまま持ち帰る。
その後、電車のなかでまた偶然に出会ってしまうふたり。言葉をかわし、逢瀬を重ねていくうちに、フランクとモリーは罪悪感を覚えながらも心を通わせあう。だが一線を越えることのないまま、フランクはモリーには二度と会わないと決める。
一方で、フランクの変化を感じ取った妻・アン(ジェーン・カツマレク)は夫に詰め寄る。フランクは妻に、「女性」の存在を告白するが……
大切なのは、あやまちを犯したあとの「身の処し方」
悲しいことですが、ときに人はあやまちをおかしてしまうものです。
理性では「良くない」とわかっていても、どうしようもなく心が動いてしまう。
忘れてはならないのは、” おちて ” しまった当人は、他に選びようがなかったということです。
ふだん理知的な人でも、何かの拍子に ” おちて ” しまうことは十分あり得る。
そこに人間の不条理と複雑さがあります。
もし、” おちて ” しまった人に救いがあるとしたら、あやまちを犯したあとの身の処し方しだいではないでしょうか。
著名人でも、なぜか、道ならぬ恋が許されてしまう人と、許されない人がいます。
あやまちに至った経緯や背景によっても周囲にもたらす印象が変わりますが、もっとも大きな要素は、当人の ” 誠実な身の処し方 ” ではないでしょうか。
あやまちを認める誠意と、実意をつくしたふるまいですね。
もちろん、誠意や実意を見せられたところで、不倫をされた側の悲しみと痛みを思えば、そうやすやすと許されるものではありません。
たとえ映画やフィクションの世界であれ、あやまちを美化されても困る。
それでもなお、映画を通して、「本気で人を好きになったら、常識や正論なんて何の力にもならない」という認識を深く浸透させておくことは、けっして浅くない意義があると思うんです。
たとえば、『恋におちて』では、” おちて ” しまった人のひとつの身の処し方が描かれています。
共感できる・できないはあるにせよ、そこにはひとつの生き方が丹念に描かれている。
たとえフィクションであれ、ときにあやまちを犯してしまう人間へのまなざしをやさしくする力が、映画にはあるように思います。
自分も含めた、愚かしくも いとおしい人間に寛容になれるといいましょうか。
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