『七人の侍』感想と考察※本能直撃!ワイルドな芸術活劇

『七人の侍』(1954年)

主演:志村喬/三船敏郎/稲葉義男宮口精二木村功

黒澤明の代表作にして世界中に絶大な影響を与えた名作。従来の日本映画のスケールではおさまりきらない、ストーリー、映像、演技、撮影技術は当時の観客の度肝を抜き、今もその感動は色褪せない。壮大なスペクタクルの底流に流れるヒューマニズムと美への志向は、ただの娯楽を超えて、観る者の本能を直撃する芸術活劇へと昇華している。そんな『七人の侍』感想と考察、解説をお届けします。

このページではこんな疑問を解決します!
  • 『七人の侍』の作品情報、あらすじは?
  • この映画の何がすごいのか?解説してほしい!
  • 見どころ、感想は?
  • 『七人の侍』の出演者の魅力は?
  • 完璧な映画とも思える『七人の侍』にもある、重大な “隙” とは?
目次

『七人の侍』(1954年)作品情報

一筆感想

もののふの…矜持
『七人の侍』の感想を筆のすさびで表現

『七人の侍』データ

第15回(1954年)ベネチア国際映画祭 銀獅子賞受賞

監督黒澤明
監督助手堀川弘通/廣澤栄/田実泰良/金子敏/清水勝弥
脚本黒澤明/小国英雄/橋本忍
制作本木荘二郎
撮影中井朝一
音楽早坂文雄
美術松山崇
美術助手村木与四郎
録音矢野口文雄
照明森茂
剣術指導杉野嘉男
美術考証前田青邨/江崎孝坪
出演志村喬(島田勘兵衛)
三船敏郎(菊千代)
木村功(岡本勝四郎)
稲葉義男(片山五郎兵衛)
宮口精二(久蔵)
加東大介(七郎次)
千秋実(林田平八)
津島恵子(志乃)
長老(高堂国典)
土屋嘉男(利吉)
左卜全(与平)
盗人(東野英治郎)
上映時間207分
ジャンルアクション/時代劇

『七人の侍』あらすじ

『七人の侍』あらすじ

ときは天正14年(1586年)の戦国時代。
とある山間の貧しい村に生きる百姓たちは、野盗化した野武士に恐れおののいていた。

代官所に掛け合ったところで拉致が明かない。
そうかといって野武士の暴虐に抵抗できるほどの戦闘力や交渉力は無いも同然である。
困り果てた村人たちは長老に相談し、長老は侍を雇うことに決める。

村を代表して、利吉と与平らが町に出てめぼしい侍を捜すがそう簡単にはみつからない。
なにしろ、謝礼は「白米を腹いっぱい食べられる」それだけだったからだ。

絶望しかけていた利吉たちは、門前でひとりの侍が僧侶に頭を剃られている光景を目撃する。

僧形になった侍は、納屋に立てこもった盗人から人質として取られた赤児を救出するというのだ。
衆人が固唾を呑んで見守る中、侍は納屋の前に立ち、「出家じゃ」と盗人を懐柔にかかる。
が、盗人を安心させたと思いきや、侍は颯爽と納屋に入り、盗人を斬り、見事赤子を救出。

僧形の侍の名は、島田勘兵衛。
一部始終を目撃した人々のなかには、若き侍・勝四郎と異様な風体の侍・菊千代もいた。
利吉らは勘兵衛に村の窮状を訴え、必死に懇願。
貴重な白米を勘兵衛に差し出し、自分たちは稗で甘んじている利吉たちに心を動かされた勘兵衛は野武士退治を引き受ける。

野武士に対抗するために必要な侍の人数は7人。
弟子入りを願い出た勝四郎に手伝わせて、道行く侍の中から練達の武芸者を探す。

勘兵衛の高貴な人格は、五郎兵衛、平八、七郎次、久蔵という侍たちを引き寄せる。
さらに勝四郎と菊千代も加わり、かたちだけでも7人揃った侍たちは、利吉たちとともに村に向かうのだった。

やがて村に到着した一行。
村人たちから手厚い歓迎があると思いきや、姿すら見せない様子に困惑する勘兵衛たち。
侍たちへの疑心暗鬼を払拭できないのだろう。
村人のひとり万造は、侍に目をつけられるのを恐れて、愛娘・志乃の長い髪を無理やり切ってしまったほどだ。

いっぽう菊千代は、村人たちが鎧兜や弓矢、槍などを隠し持っているのを発見。落武者から剥ぎ取ったものである。
これにはさすがの勘兵衛も気色ばみ、寡黙な久蔵でさえ殺気立たないわけにはいかなかった。
「落武者になって竹槍に追われた者でなければこの気持ちはわからん」としみじみと述懐する勘兵衛。

そんな侍と村人のあいだに横たわる溝を埋めたのが菊千代である。
農民出である菊千代だからこそ、村人たちの人間的な弱さに寄り添えたのだろう。

村の地勢を検討した勘兵衛は、村の周囲に堅牢な柵をめぐらせていく。
野武士との戦いに向けて、ともに準備をし訓練をしながら、少しずつ心を合わせる侍たちと村人たち。

人間同士交われば、ロマンスが生まれるのは人の世の理。
偶然出会った勝四郎と志乃。ふたりは逢瀬を重ね、心を通わせていく。
若侍と農民の女、どうしようもなく惹かれあうふたりだが、勝四郎には一線を越える意気地がない。

ある日のこと、要塞化を進めていた村のはずれに、野武士の偵察隊がひょっこり現れる。
侍たちは野武士たちを取り押さえ、生け捕りにしたひとりから野武士のアジトをはかせることに成功。
勘兵衛らは奇襲攻撃を決断、決行隊として、久蔵、菊千代、平八、案内役には利吉が選ばれる。

夜討ちは奏効するが、アジトには、かつて野武士たちにさらわれた利吉の女房がいた。
女房を追う利吉。それを止めようとする平八。
ここでダーンと銃声が鳴り響く。野武士たちの種子島銃が火を噴いたのだ。
平八が倒れ、やがて絶命する。

土饅頭の墓の前、悄然としてうつむく侍と村人たち。だが落ち込んではいられない。
菊千代は、平八が生前つくった旗を家の屋根に威勢よく突き立てる。
気持ちよく風にひるがえる旗を見て、侍や村人たちは襟を正し、士気を高めるのだった。

ちょうどそのとき、菊千代がはるか山の峰に目をやると、馬を駆る男たちがこちらに向かってくる。
憎悪に駆り立てられた野武士の一団が報復にきたのだ ━━

『七人の侍』の解説・感想

世界中のクリエイターがリスペクトする娯楽大作~その時代を超えた影響力

『七人の侍』は、名実ともに黒澤映画のナンバーワンの娯楽大作であることに疑問を挟む余地はないでしょう。
2018年、英国放送協会による「史上最高の外国語映画ベスト100」では1位に選出。

世界中の名だたる名監督は『七人の侍』と黒澤明に満腔のリスペクトを捧げています。『スター・ウォーズ』のジョージ・ルーカスは若かりし頃、「本物の映画に出会った」と深く感銘を受けたそうです。また『ジョーズ』や『E.T.』のスティーブン・スピルバーグは、作品をつくりあげる際、創造性に刺激を与える作品として『七人の侍』を挙げています。

ちなみに僕は映画業界の人間でもなんでもない、凡庸な人間ですけど、「創造性に刺激を与える」というスピルバーグ監督の気持ちにとても共感してしまいました。この名作を観るたびに「自分にも何か創れるんじゃないか!」と、夜郎自大な気持ちにさせられるからです。インスパイアっていうのでしょうか、観る者の気宇を壮大にさせる何かがある。もっとも僕の場合、創れそうな気持ちになるだけなって、実際に創作したことはありませんが……黒澤明がもっとも嫌うタイプの人間でしょうね、とほほほ。

他にも『七人の侍』が後世の映画作品に与えた影響力は凄まじく……

・暁の7人
・宇宙の7人
・七人の刑事
・七人の無頼漢
・七人のおたく

このように、時代、国、分野を領域横断するように「七人」の活躍する物語が作られました。

白眉はなんといっても『荒野の七人』(1960年)でしょう。こちらも見事な娯楽大作に仕上がっています。(ただ、菊千代と勝四郎をごっちゃにしたようなチコ《ホルスト・ブッフホルツ扮演》のインパクトが弱いかなぁ……という印象ですが、まあそれはそれとして)

とくに「七人」と付かなくても、『七人の侍』にインスパイアされた映画やドラマ、漫画作品はそれこそ枚挙に暇がありません。たとえば『キン肉マン』というアニメ作品に『七人の侍』の影響を感じます。
(ゆでたまご先生、間違っていたらすみません……)

ことほどさように、あらゆるエンタメ作品の背後に『七人の侍』の存在がちらついています。黒澤明は世界中のクリエイターにインスピレーションを与え続ける刮目すべき “インフルエンサー” なのです。

『七人の侍』の公開から70年。作品としての偉大な輝きは色褪せません。これからもずっと……。

黒澤明が追い求めた究極のサムライ・リアリズムとは?

『七人の侍』が世界で絶賛されたのは、黒澤明の透徹したリアリズムの追求が深く与っています。

この作品が公開されるまでの時代劇は、歌舞伎の強い影響下にありました。不自然なセリフ回しや、非現実的な衣装やカツラが採用されていたのです。リアリズムを求める黒澤にとっては「何をか言わんや」だったことでしょう。旧態依然の演出から脱却するために、監督はスタッフや俳優にもリアリズムを追求する姿勢を求め、ほとんど挺身させたのです。

当時のチーフ助監督である堀川弘通著『評伝 黒沢明』を読むと、撮影当時の黒澤明の冷静な狂気を窺い知ることができます。人馬入り乱れる乱闘シーンで堀川は、俳優を怪我から守るために金属製のカツラをつけるように監督に提案。ところが黒澤明は断固拒否するのです。なんと、金属製のカツラをつけることでリアリティが損なわれるという理由からでした。

黒澤:「そんなことあ、できないよ。レンズは望遠で狙っているんだから」
堀川:「死人が出てもいいんですか?」
黒澤:「ああ、しかたないね。必ず死ぬとは限らないんだから」

きょうびのガッチガチなコンプラ遵守の時代から見ると、とんでもない発言です。ですが、芸術を愛し映像を通してヒューマニズムを体現した黒澤明が生命を軽視するわけがありません。実際に撮影中には落馬して骨折した人が5名いましたが、後年のインタビューを読むと黒澤明はスタッフや俳優への深いリスペクトを忘れることはありませんでした。

たしかに、黒澤明は思考様式も行動様式も破格だけれど、死にものぐるいの、それこそ命懸けの撮影でなければ生み出せないリアリティの追求こそ、監督としての自分の仕事だと覚悟を決めていたのではないでしょうか。

なにより黒澤監督自身が、侍の気概で撮影に向き合っていたように思うのです。

黒澤監督、スタッフ、俳優たちのほとんど死物狂いの撮影によって、『七人の侍』は見事、サムライ・リアリズムの表現に成功しました。監督もスタッフも俳優も、皆がぎりぎりの剣ヶ峰に立って撮影にのぞみ、日本映画の最高傑作の一本をつくりあげたのです。制作に携わった人すべてが、「もののふ」です。士道不覚悟では成し遂げられない仕事だったに違いありません。

ラストの合戦シーンでは演技を超越して、侍たちの「生」の躍動、いのちの喜びが、生き生きと伝わってきます。

島国スケールの小粒な自分を一喝してくれる映画

黒澤作品はどれもこれもスケールの大きさに荒肝をひしがれてしまうが、なかんずく『七人の侍』は白眉といえましょう。気持ちが弱っているときにこの作品を観ると士気を鼓舞してくれるのです。3時間半、浮世のしがらみを忘れて、『七人の侍』を観る。まるでサウナに入って、全身もみほぐしを受けて、たらふく焼肉を食べて、エナジードリンクを3本飲んだあとみたいに、全身溌剌、気分爽快。そんな映画。

当時の黒澤明の気概を示す、愉快なエピソードをひとつ紹介しましょう。

『七人の侍』の撮影中、社会党書記長の一行が、ロケの見学に訪れます。なかのひとりが野武士を一方的に絶対悪に見立てるのに違和感を覚えたのでしょうか、「野武士には野武士の言い分がある」と発言。それを聞いて、腹に据えかねた黒澤が一喝したそうです。

泥棒がいいという論理か、泥棒をすることは悪いことだろう、それと戦うのは当たり前じゃないか、何をぬかす

(「『七人の侍』ふたたび」文藝春秋・1991年12月号)

何をぬかすというのがイイですね。人間の “貫目” というものが違います。

黒澤明という桁違いの人物を思うとき、僕はいつも日本特有の狭隘な「島国思考」を思い起こされるのです。
たしかに日本は素晴らしい国です。豊かな自然に育まれた美しい言語、たおやかで潔い美意識、奥ゆかしい感性は誇りにしてもいいと思う。

しかし島国であるがゆえの、 “スケールの小粒さ” の自覚は各人持っていたほうがいい。自覚を欠けば夜郎自大の弊は免れない ━━ これは歴史が教えてくれる痛切な教訓ですから。

きょうび、我々は否が応でもグローバルな時代に生きています。島国思考にしがみついていては発想が広がらないし、生き方の選択肢も限られてくるでしょう。腐った溜息を漏らしつつ「日本人だから……」と嘆いてみせたところで、周囲に失笑されるのがオチです。

ならば世界に目を向けてみる。世界の中で自分のいまいる「立ち位置」がわかると、課題を発見し解決をするヒントがみつかるでしょう。黒澤作品のような世界スケールの映画を観て勇気を奮い起こし、歴史、文化、芸術といったリベラルアーツを積極的に学ぶ ━━ これが島国思考を脱却する堅実な方法です。島国思考を相対化し、世界の中の自分の輪郭を明確にするには謙虚に学ぶしかないのだから。

『七人の侍』は、ややもすると惰弱になりがちな自分に痛棒を食らわし、小粒な思考を粉砕してくれるありがたい映画です。「ああ、自分はダメなやつだ…」と自信を失ったら『七人の侍』を観る。すると黒澤明から「何をぬかす!」というありがたい一喝が飛んでくるかのようです。

『七人の侍』の見どころ

ART

時代劇というより芸術活劇

『七人の侍』は娯楽時代劇のカテゴリーにおさまりきれません。
人間の本質に迫るアプローチがあまりにも鋭く、作品スケールがあまりにも壮大で深遠すぎるからです。侍たちと野武士との戦いを通じて、人間の気高さと卑小さ、希望と絶望、平和と戦争、秩序と混沌を、ときにワイルドに、ときに繊細なタッチで描き出し「人間存在と何か?」という命題を浮き彫りにします。

確かに現代のスタイリッシュな高解像度の作品と比較すると、モノクロで特殊技術を使わない『七人の侍』には、古色蒼然たるおもむきがつきまとうでしょう。しかし、デジタルAIの時代だからこそ、そのリアルな白黒の陰影が生々しい迫力を持って観る者の想像力を刺激し、新鮮な驚きを提供します。観る者のイマジネーションをたくましく喚起させ、フレームにおさまりきらない映像まで玩味させる力がある。まるで観る者の首根っこをつかみ、物語に没入させるような手荒さです

『七人の侍』には、ときのふるいにかけられても色褪せないタイムレスな魅力があります。モノクロなら色褪せようがありません。いつ、誰が、どこで観ても、映画が放つメッセージが、黒澤明の脈打つ想いが、曇りなく伝わってくる。普遍性とはそういうものです。

ゆえに僕は、他の時代劇とは一線を画するものとして、『七人の侍』をユニバーサルな広がりを持つ「芸術活劇」と位置づけています。野趣満々、ワイルドな「芸術活劇」として。

巨匠の映画づくりのこだわり

『七人の侍』黒澤明のこだわり

撮影

複数台のカメラを使って、同じシーンを違う角度と距離からで撮影。「1カメ」「2カメ」というやつです。この撮影法によって、これまでの時代劇では表現できなかった臨場感のある戦(いくさ)を体現。
「どうだ、ほんとうの “いくさ” とはこういうもんだろう!」と得意げな黒澤の顔が目に浮かぶようです。

セット

舞台となった村は、1か所ではなく、大きく5か所に分けています。

村全体・・・下丹那に二十数戸の藁屋根の百姓屋のオープン
村の東・・・伊豆長岡の堀切
北側・・・箱根仙石原
西側・・・御殿場二の岡
南・・・東と同じ堀切

※野武士の山塞と合戦は東宝のオープンセットで撮影

これらをモンタージュしているのですが、言われなければ気づきません。
移動だけでも大変ですが、撮影日数が伸びようと、黒澤明監督は妥協できなかったのでしょう。
村人が住む家のデザインも独特です。土地にはいつくばって生きざるをえない村人たちの「生の過酷さ」を象徴しています。

立ち回り

因習にとらわれることない監督は、1対1で戦う時代劇から、集団による肉弾戦、白刃戦による時代劇を追求。敵味方が入り乱れての合戦シーンは有無を言わせぬ説得力がある。チャンバラと呼ぶにはあまりにもリアルすぎて、むせかえるような迫力に圧倒されるのです。

人物造形・衣装

侍の衣装は、黒澤監督自身が自らデッサン。ひとりひとりのキャラクターの所作の細かい点までノートに書き込んでいたという。たとえば勘兵衛の歩き方、声をかけられたときの反応の仕方、わらじの履き方、たたずまいまで微に入り細を穿つ精緻さです。村人や野武士たちの衣装にも妥協はありません。染めた衣装を川につけて、泥に浸し、洗って晒して、軽石にこするという念の入りよう。

予算を使い果たした撮影中止に追い込まれた黒澤明が放った打開策とは?

いかにパトロンから支援を引き出すかも芸術家の実力のうち。黒澤明はその能力にも不足はありませんでした。まったく譲歩を知らない撮影は遅れに遅れ、当初の予算も尽きてしまう。撮影は中断。途方に暮れるスタッフや俳優。会社側も中止を迫ってくるが、黒澤明は一計を案じます。重役たちに撮影済みのフィルムを見せるのですが、ラストの合戦シーン直前で中断。つまり本記事に書いた「あらすじ」の部分までを重役たちに見せたのです。さあこれから物語はいよいよ面白くなるというところで中断しているものだから、さしもの渋面の重役たちも続きが見たくなったのでしょう、撮影を続行させるのでした。人間に精通した黒澤明が一枚も二枚も上手だったようです。あっぱれ。

『七人の侍』前半のおもしろさ~侍探し

『七人の侍』みどころ

物語の最初からズルズルと引き込まれます。
早坂文雄によるパセティックで武侠の威厳に満ちた音楽に負うところが大きいかもしれません。

野武士の撃退するべく侍を雇うために町に出た利吉たちは、勘兵衛の剣の腕前をみて、彼に必死で助力を乞います。当初は断った勘兵衛は、百姓たちにとって貴重な白い飯が盛られた椀を受け取り、「このめし、おろそかには食わんぞ!」と村を守り、野武士との対決を決意。

もうこの時点で「そうこなくっちゃ!」と快哉を叫ぶほど、観客は『七人の侍』の世界観に浸かりきっています。ここから引き返すなんて無理な相談だ。

さあここから前半の山場、侍探しが始まります。村の地勢から全部で7名いると判断した勘兵衛は残り6名の同志を探すことに。命懸けの戦いの報酬は、米を腹いっぱい食べられるというだけ。名誉も仕官の途もあるわけではない。ところが勘兵衛の人柄に惚れて、ひとり、またひとりと、侍たちが集まってきます。

勘兵衛は侍の腕前を試すために、宿の入ってきた侍を、陰に潜ませた勝四郎に木刀で不意打ちさせる。これは『本朝武芸小伝』の柳生但馬が子息にやらせたという逸話をアレンジしています。おもしろい。

まずは五郎兵衛、そして勘兵衛の “古女房” である七郎次、さらに五郎兵衛がスカウトした平八、やがて寡黙で相当に腕のたつ久蔵が皆が集う木賃宿にやってくる。残りふたり。

当初勘兵衛は勝四郎を子供扱いして頭数に入れなかったが、五郎兵衛らのとりなしで翻意。欣喜雀躍する勝四郎。7人にはひとり足りないところ、異様な風体の侍・菊千代がまたも現れる。とても武士とは言えない野卑な男ですが、彼もまた勘兵衛の人柄に惚れたのです。

このあたりのひとり、またひとりと仲間が揃っていく様子は、僕のようにすっかりくたびれた中年でも、少年の心に還って胸の高鳴りを覚えてしまう。野暮な説明もなく、スピーディーに短いショットを重ねていきながら、印象的なエピソードを通してひとりひとりの侍の個性の粒立ちを見事に描出しているのがなんとも心憎い。そこには曖昧なキャラクターはひとりもいません。どこまでも人間を描くことを忘れないのが黒澤芸術の真骨頂といえるでしょう。

もうひとつ、前半で忘れがたいシーンがあります。村人たちが落武者から剥ぎ取った武具を隠していたのが露見して、気色ばむ侍たちに、菊千代が地団駄を踏みつつ、憤然とまくし立てる場面です。

百姓ってのは、けちんぼで、ずるくて、泣き虫で、意地悪で間抜けで、人殺しだ!
だがな、そんなケチくさいケダモノをつくったのは誰だ?
お前たち侍だってんだっ!

『七人の侍』菊千代のセリフ

人間の複雑さ、抜き差しならない矛盾を内包した人間存在の悲哀に、しんと心を打たれてしまう。

侍と村人たちは、対立と相克を乗り越えながらも、紆余曲折を経て一丸となってゆく姿は観る者に静かで深い感銘を与えます。『七人の侍』は前半だけでも、後進の映画やドラマ、漫画等にどれほどの影響を与えたでしょう。

『七人の侍』後半のおもしろさ~野武士との戦い

後半はいよいよ野武士たちの合戦シーン。
このシーンの撮影には最高の天気が選ばれたことがうかがえます。モノクロの映像に映し出される陰影の美しさは、息を呑んでしまう。そりゃ撮影日数が伸びるのもむべなるかなといったところ。

平八が犠牲になった奇襲攻撃は奏功し、逆上した野武士たちは村を襲撃してくるのですが、これは勘兵衛の狙い通りでした。
勘兵衛は村に1か所だけ槍衾(やりぶすま)を設け、1騎ないし2騎ずつ通過させ、袋のネズミになった野武士を仕留めていくという作戦です。

この戦術では、チャンバラでよく見るようなドラマティックで派手な殺陣は見られません。侍たちは騎馬に横殴りに斬りつけ、落馬した野武士を百姓たちが仕留めていく。どこまでもリアリズムに徹しています。

『七人の侍』は緊張と緩和のバランスも絶妙です。だから3時間半の長丁場でもさしたる中だるみはありません。物語にメリハリを与え、 “緩和役” を受け持つのは、コメディリリーフである菊千代です。決戦の前日、百姓たちを集めて言うセリフが実にふるっている。

おい、みんな、今夜ぁ、たっぷりおっかあを可愛がっとけっ!

『七人の侍』菊千代のセリフ

百姓たちも大笑い。じつに人間の機微をとらえている。このあたりが黒澤&三船コンビの巧さなんですね。黒澤は三船のもつ、道化味や茶目っ気を存分にひきだして、殺伐になりがちな活劇に、あたたかいインティメートな雰囲気を醸し出すことに成功しています。

そして、クライマックスの雨中の合戦 ━━ 映画史にその名を刻む伝説的なシーンです。当初、夏に撮影される予定でしたが、年をまたいで2月になったという。霜柱が立つ厳寒の野外ロケ。沛然と降る雨はみぞれ混じり。スタッフ、俳優、『七人の侍』に携わっていたすべての人びとにとって極めて過酷な撮影だったことでしょう。

俳優たちは膝までズブズブと泥濘のなかでのた打ち回りながらの人馬一体となった白刃戦。菊千代なんて、フンドシ一丁で鉄板を繋いだだけの畳鎧だから、ほとんど半裸状態。歯の根が合わない三船敏郎の「カチカチカチカチ」という音が聞こえてきそうです。(菊千代役の三船敏郎は撮影後、慶応病院に1週間入院。そりゃそうだろうよ)

ところで黒澤監督は雨に濡れない暖かい場所でメガホン片手に指示を出していたかというとそうではありません。黒澤明もまた泥の中に立ち続けたため、足の爪がすべて死んだという。もはや「執念深さ」という言葉でも足りないような気がしてきました……。

ジョン・フォードに傾倒していた黒澤明は、日本における西部劇を大胆にして繊細な手さばきでやってのけたのでしょう。そこには桁外れの才能も要る。前例にとらわれない作家的野心も求められる。深い思索や芸術観も問われるでしょう。むろん冷徹な頭(ロジック)も欠かせません。

だが、『七人の侍』は、黒澤監督ひとりで創ったわけではありません。スタッフ、役者全員が、からだすべてを投げ出して映画づくりに挺身しています。そこには非言語の感覚、野性、獣性、そして美への渇きが感じられる。『七人の侍』に携わったクリエイターたちの人間性の本然に根ざす “創造への渇き” が感じられるのです。

だから理屈を超えて、映像が、言葉が、音楽が、観る者の心に深く食い込んでくる。物語の心拍数が上昇し、感動と熱狂と愉悦が渾然一体となって観る者を圧倒します。

映画のラスト。
野武士との合戦が終わり、喜びに満ち溢れた村人たちが唄をうたいながら、次の収穫に向けて田植えをしている場面です。彼らには後顧の憂いがありません。もう脅威が去ったのだから。いっぽうで彼らを見つめる勘兵衛の言葉には、観客を手放しのハッピーエンドの余韻に浸らせないメッセージが込められているように思いました。これはあなたの目と耳でたしかめてほしいです。

『七人の侍』が公開されたのは昭和29年。戦争の記憶が生々しく残っていたでしょう。
田植え唄を口ずさむ百姓たちの姿が、終戦直後の日本の姿と二重写しに見えてしまうのは僕だけでしょうか。

『七人の侍』主要キャストについての考察・レビュー

『七人の侍』キャストについての考察

志村喬(島田勘兵衛 役)

謹厳実直、冷静沈着、勇猛果敢、知勇兼備、不撓不屈、秋風索莫、行雲流水……昭和の名優が演じるこの武芸者を思うとき、さまざまな四字熟語が浮かびます。

終始、悠揚として迫らざる態度。惻隠の情にも不足はないが、こと戦(いくさ)になると威風辺りを払う”もののふ”の行動美学を重んずる。そんな勘兵衛は侍大将の風格ですが、実は負け戦ばかりで春秋を重ねてきました。だからこそ巌の如き貫禄と涼しげな諦観、ややもすると厭世に傾きかねない屈託がバランスされて、屹立した人格を輝かせています。

黒澤明は志村喬の芸域を試すように、作品ごとに個性豊かな役を与えているようです。汚職に手を染めた次席家老や、やさぐれた飲んだくれドクターや、ドロップアウトした黒い弁護士など……しかもすべて「志村喬」のテイストで染めあげている。

だがなんといっても、前作『生きる』(1952年)の市民課長・渡辺勘治と、本作『七人の侍』の侍大将・島田勘兵衛が役者としての真骨頂です。前者は「静」の妙演、後者は「動」の達演。時代は違えど、どちらも「侍」の生き方を体現しています。

それにつけても、この人の内省的な佇まいはどうだろう。野を駆けるシーンでも、上体の軸がぶれず、凛然たる風格を崩しません。ときに色をなして秋霜の厳しさを見せるが、ヒューマニズムを濃密に流露させながらも、清雅な品位を漂わせています。志村喬が登場するたびに、画面がキュッと引き締まるかのよう。

撮影当時、志村喬は役者としても気力充実の時期でしたが、積みあげた技巧に流されることなく節度をもって練達の武芸者を演じているように見えます。僕はこの人の端正な立ち居振る舞いに憧憬の念を抱かずにはいられません。「義を見てせざるは勇無きなり」という言葉がふさわしい。漢(おとこ)は、すべからくこうありたいものだと。

『荒野の七人』を制作・主演したユル・ブリンナーも、志村喬に惚れ込んだという。『王様と私』におけるシャムの王様役でならしたこの名優は、『七人の侍』の志村喬の演技を観て「西部劇はやらないぞ」というポリシーをあっさり覆してしまいました。それほど志村の演技は格調高く、洋の東西をまたぎ越して「漢」(おとこ)に訴求するものがあったのでしょう。

勘兵衛の以下のセリフにはしびれてしまう。

他人を守ってこそ自分は守れる。おのれの事ばかり考える奴は、おのれをも亡ぼす奴だ

『七人の侍』より

志村喬だから説得力をもってずしりと響くのではないかと。

三船敏郎(菊千代 役)

侍だか農民だかわからない、強烈なアンチヒーローです。
精気をしたたか迸らせながらの大車輪のごとき演技で観客を大いに楽しませます。

この人を一言で言い表すと「華のある野獣」
そのワイルドで狂暴な姿、俗塵まみれ隙だらけの潔い佇まいに、罰当たりな侠気を感じさせる。それでいて性格はコミカルであり、ときとしてデリケートな一面さえ垣間見せて、観る者を魅了してやみません。ふだん下戸の僕でさえ、黙ってサッポロビールのタブに指をかけてしまいそうになりました。

相反する性質を拮抗させつつ、キレよく突き進むドライブ感。矛盾を抱えたまま暴れまわるヒーローゆえに、無軌道なインパクトを与えているのでしょう。あっぱれです。

悪態のつきかたひとつとっても卑しきダンディズムがあふれている。野獣の色気に目が眩みそう。後年の『用心棒』や『椿三十郎』で見せるような、風を巻いて走る闘犬のごとき速さはまだ開発されていませんが、外国映画並みのスケールを誇る黒澤作品に、ぴったりハマる大柄な存在感はケチのつけようがありません。

無手勝流の体技で野武士どもを圧倒する姿は観ていて胸がすく思いがします。野放図のようでいて演技がオーバーにならない。そこにはおそらくデリケートな調整が加えられているのでしょう。

生前のインタビューで三船は、「(黒澤監督から)菊千代は自分の思う通りにやれ」と言われたと語っています。だから、ワンワンワンと犬の鳴き声を真似て挑発したり、後ろ向いてパッパッパッと砂をひっかける滑稽なふるまいは、三船敏郎のオリジナルアイデアでした。並の俳優が同じ演技をやったら、素っ頓狂な間抜け野郎になってしまいシーンごと日の目を見ることはなかったでしょう。

シリアスな演技も、道化の演技も、当意即妙にこなす三船敏郎に、黒澤明は全幅の信頼を置いていたのではないでしょうか。ナイフでスゥーッと切り込むようなシャープさも、ハンマーでガツンと打ち据えるようなパワフルさも変幻自在に繰り出せるのは、やはり才能なのでしょう。とりわけ黒澤明の作品のなかで、三船敏郎は演者としてスペクタキュラーな輝きを放ちました。

黒澤=三船コンビは、ジョン・フォード=ジョン・ウェイン、スコセッシ=デ・ニーロに並ぶ、映画界の奇跡的なベストマッチであることに異論を挟む余地はありません。

木村功(岡本勝四郎 役)

アドレッセンス真っ只中のデリケートな若侍をフレッシュに演じています。
育ちの良い情緒を漂わせていて、核心に向かってまっすぐ迫る真摯さが感じられるような演技。

百姓の娘、志乃とのロマンスは青臭くて、途中で意味もなく立ったり座ったりしてしまいました。

老練な侍たちのなかで勝四郎はひよっこです。
リーダーの勘兵衛はさいごまで勝四郎を「七人の侍」に加えるのを渋ったほどですから。
しかし、あながち足手まといというわけではありません。
勝四郎はひとりでいるとヤワな優男だが、チームの中にいると物堅い侍として機能します。

チームといっても、久蔵や五郎兵衛のような強者ばかりで固めては、かえって強さにへたってしまうものなんですね。
一流選手ばかり集めてもリーグ優勝できない球団が好個の適例といえましょう。
つまり、どんなチームであれ、勝四郎のごとき存在は欠かせないのです。

稲葉義男(片山五郎兵衛 役)

リーダーが島田勘兵衛なら、この御仁はさしずめ参謀役といったところでしょう。
まごうかなき武人であり、明快な力強さを備えている。
立ち居振る舞いはどこまでもジェントルマンです。
友愛と労りに満ち溢れた高潔な人格者といえましょう。

勘兵衛が腕利きの侍をスカウトするために、木賃宿に入口の陰に潜ませた勝四郎を木刀で打ち込ませる。
ところが五郎兵衛、気配を察知して、「ハハハハ……ご冗談を」と柳に風で受け流す。
思わず、「あっぱれ!感服仕った」とつぶやいてしまいました。

役者・稲葉義男は、悪人も演じても、凄みのある “つらつき” ができる人だけど、善人役のほうがいっそう芸風が引き立つようです。全体の目配りをしつつ、腰を据えたそつのない演技は、役者として相当な修練を積んでいることを示唆している。後年の、むせかえるような重厚な人間味を表現した演技も素晴らしい。

宮口精二(久蔵 役)

端倪すべからざる練達の剣客。
苦み走った表情でぎろっと睨まれると背筋が寒くなる。
懦夫をも立たしめる裂帛の気合いが全身に充実しています。

超然として物静かなたたずまいに、穏やかな虚無感や、余人に明かせぬ悲哀を秘めていることがうかがえる。
いざ立ち回りになったら、颯爽たる気魄で敵の荒肝をひしぐ。かっこいいです。

時代劇に登場する冷徹な剣豪は、ともすると己より弱い相手を小馬鹿にする、斜に構えたいやらしさがつきまとうが、久蔵はそうではない。誰に対しても分け隔てなく交流する。己の腕を誇ることはありません。

新劇俳優出身の宮口精二の役作りには並々ならぬ気概がうかがえます。
あるいは六根清浄な生活をして、撮影にのぞんだのかもしれない。
「剣ひとすじに生きる武芸者とはこれだよ」という、ひとつの明快な回答を示しています。

加東大介(七郎次 役)

かつての勘兵衛の部下だった男。折よく町で再会する。
「今度こそ死ぬかも知れんぞ」と覚悟を促す勘兵衛に、この男はニヤリと笑う。
この笑い方で、七郎次のキャラクターを語らせてしまうところに役者としての凄味を感じさせる。

村人に有無を言わせない威厳にも不足はなく、もののふの矜持と胆力を嫌味なく表現しています。

ふくよかな体躯に、ハッとするようなニヒルさを忍ばせてい、ちょっと油断ができないタイプの人。
ふだんは穏やかだが、いざというときは一歩も退かない意思の強さを発揮して、懸案事項をしかるべき場所に落ち着かせる。ためらいなしに手段を選ばず全身全霊で目の前のタスクに打ち込む。

実際の加東大介もそんな役者だったのかもしれないなぁ……と思える演技です。

千秋実(林田平八 役)

摩擦や軋轢を和らげるムードメーカーの侍として描かれています。
まぎれもない侍だけれど、武張ったところがまるでない。
菊千代との相性もぴったりです。

こういう人がチームにいてくれるとシナジーを起こしやすく皆のパフォーマンスを引き出すことができるように思います。
総務課にひとりはいると職場は明朗に潤う、そんなタイプです。

名優・千秋実の演技は、「ぽかぽか陽気の午後の縁側で子猫を撫でながら、まったりとした中庸の心地よさ」と言えばいいでしょうか。この人のセリフが、いかにも「戦後民主主義的な浪花節」の風趣がたゆたってい、なんだかくつろいでしまう。

黒澤明は『七人の侍』の当初予算が尽きたために撮影中止になったとき、この俳優を誘って釣りに行ったという。つまり千秋実ってそんな人なんですね。黒澤作品の名バイプレーヤーとして名高い人ですが、後年『花いちもんめ』(1985年)の演技も素晴らしい。

その他のキャスト

津島恵子(志乃 役)

村の娘、志乃を体当たりで熱演しています。
勝四郎と出会い、女として、えならぬ美しさを開花させていく志乃に、文学青年の繊細さを併せ持つ黒澤明の女性観が色濃く反映しているように感じました。

この人から、「弱虫 侍のくせに と見損なわれたら、ちょっと立ち直るまで時間がかかるかもしれない。
(僕なら3週間くらい立ち直れないような気がします)

自分を見失わない程度に節度を保持した演技。
身分違いの恋に揺れる “心のあや” を見事に表現しています。

土屋嘉男(利吉 役)

村人のリーダー格。
野武士に女房をさらわれた屈折と悲哀を実直に熱情を迸らせながら表現しています。
一点一画もゆるがせにしない実直な演技。
眼光の鋭さが印象に残る人です。

高堂国典(長老 役)

野武士に怯える村人たちに「侍を雇え」と提案する。
異様なえぐみと存在感を放つ俳優です。
とくに表情には気圧されてしまう。
モノクロ映画だから、いっそう凄みがあります。

左卜全(与平 役)

「巧拙」という評価軸をもって、この人の演技を推し量ることはできません。
黒澤明は、役者である以前の人間のもつ「味」を評価しているように思うのです。
セリフが明瞭に聞き取れないところがいいのかもしれない。見ていて飽きない。
この人の滑稽の味は、あるいはロシア文学的かもしれません。

東野英治郎(盗人 役)

赤ん坊を人質にとり納屋に立てこもる盗人。
勘兵衛に斬られて、納屋から出てくるシーンは見ごたえたっぷりです。
絶命するまでのスローモーションに、俳優生命を賭けているような切迫を感じさせる。
軽くなりすぎてもいけない、重くなりすぎてもいけない。
ですが、盗人でもひとりの人間の命が尽きる荘厳さを、この人の持つ演技文法で表現してみせたように思います。

城も人間も映画も、よいものにはきっと「隙」がある~『七人の侍』コラム

七人の侍コラム

黒澤明は言葉の人でもある。
人間の本性を撃ち抜くような登場人物たちのセリフにハッとされられることおびただしい。
重厚な人間ドラマを通して洞察を提供しながら、複雑で多様な人間存在を浮き彫りにする手さばきが見事だ。

先ほどに続いて、もうひとつ勘兵衛による、ハッとさせられるセリフを紹介したい。

よい城にはきっと隙がひとつある
その隙に敵を集めて勝負をする
守るだけでは城は持たん

『七人の侍』より

兵法の極意にようにも聞こえるが、人生万般にも通ずるのではないだろうか。

あなたの周りにもいないだろうか、完璧を求めるあまり「隙」を一切見せない人が。
彼らにとって「隙」を見せることは、とりも直さず「弱み」を見せることなのかもしれない。
だから「隙」を見せるのを恐れる。
でも考えてみてほしい。「隙」ひとつ見せない人間に対して、こちらも心を許せないのは自然の情理ではないだろうか。

もちろん初対面でことさら「隙」をみせる必要はない。
だが、知り合ってからずいぶん時間が経つのに「隙」が見えない人、見せてくれない人ってどうなんだろうと訝しく感じてしまう。

真に心を通わせるためには、「隙」を見せる勇気も必要である。

何気ない瞬間、おもいがけないタイミングで相手の「隙」が見えると、親しみやすい人間味がジュワッと感じられて、コミュニケーションが円滑になったり、相手が好ましく思えたりする。
そう考えると「隙」が、人間関係における風通しを良くするのではないだろうか。

少なくとも僕は、「隙」のない人間は好きになれない。そして、「隙」のない映画も。

映画においても「隙」は、重要な役割を果たすのではあるまいか。
作品に「隙」があるほうが、物語が洗練されたり、深い詩情が生まれたり、映像に息づく興趣がより心をそそるものになったりする。

あっさり言えば、「隙」のある映画はチャーミングなのだ。
人間と同様、どんなに完成度が高くても「隙」がない映画は楽しめない。
ならば、映画づくりにリアリティや完成度を求めるだけでなく、もっと戦略的に「隙」を設けてもよさそうなものである。

ところで『七人の侍』は、一点の曇りもない完璧な活劇映画のように思えるが、ひとつ重大な「隙」があるように思う。

基本中の基本である「時代設定」だ。
まさか黒澤作品にそんなことがあるのだろうか。

『七人の侍』の時代は戦国末期の天正14年(1586年)ごろである。
というのも、物語の前半、菊千代が自分の身分を証するために、あやしげな家系図を勘兵衛に見せる。
官兵衛は呆れつつも「これがおぬしなら当年とって13歳」という。
菊千代は天正2年生まれ、よって、物語の舞台は天正14年と推定される。

となると、野武士に対して防衛手段をもたない百姓たちの存在があやしくなるのだ。
戦国の乱世は、兵農分離以前の時代だったはず。
つまり「農」と「士」は截然と分けられず、 “半農半士” が実情だったのではないだろうか。

もちろん、歴史における「if」に寛容な立場に立てば、略奪を繰り返す野盗集団に対抗すべく侍を雇った可能性を考えてもいい。だが、ほとんど狂気に近いほど作品にリアリティと厳密さを求める黒澤明が時代考証に無頓着だったという事実には首をひねってしまう。

もしかしたら、黒澤明は意図的に「隙」をつくったのかもしれない。
これまで誰も見たことも聞いたこともない “リアリティのある虚構世界” を創造するためには、史実や考証の逸脱もやむを得ないと考えたのではないかと

黒澤明なら、考証に忠実な「隙」のない映画を作ることもできただろう。
だがどんなに完成度が高くても、従来の延長線上にある時代劇で終わってしまったかもしれない。
それは黒澤にとって不本意な、至極つまらない映画だったのではないだろうか。

結果として、『七人の侍』はこれまでの時代劇を鮮やかに刷新するエポックメイキングな作品として完成した。
「和の西部劇」として映画史において特別な地位を占め、世界中の作家やクリエイター、プロフェッショナルの人々に「導きの星」として仰がれる存在になる。

『七人の侍』は映画作品として完璧ではない。「隙」があるのだから。
だが、作品の「隙」が、芸術的な豊穣と恵みをもたらしたのは間違いない。

城も人間も映画も芸術も、ひとつくらい「隙」があるほうが、全体の調和や均衡が保てる。
「隙」を維持することで、培われる「強み」もあるのだ。
ならば、人間関係や創造においても、「隙」の価値を見直してみてもいい。

「よい映画にはきっと『隙』がひとつある。その『隙』に創意工夫を集めて勝負をする。セオリーを踏襲するだけでは映画はつまらん」と黒澤明が言ったわけではないけれど。

さいごに~『七人の侍』を視聴できるサービスは?

『七人の侍』を楽しめる動画配信サービス
  • U-NEXT
  • DMM TV
  • Amazonプライム・ビデオ
  • TELASA
  • You Tube
  • Apple TV
  • Google Play ムービー& TV
今すぐ視聴可

※ただし時期によっては『七人の侍』の配信およびレンタル期間が終了している可能性があります。

『七人の侍』は以下にあてはまる方におすすめです。

アクション映画が好きな人

『七人の侍』は、緊迫した戦闘シーンや戦術の駆け引きが興味深く、アクション映画ファンにも楽しめる要素が多い作品です。まったく古さを感じさせません。

映画ファン

世界映画史において不朽の名作とされており、邦画でありながらも海外のスケールの大きさを感じさせる映画です。押しも押されもせぬ映像の風格は世界中の映画ファンを唸らせました。

人間ドラマが好きな人

七人の侍のキャラクターたちはカラフルな個性の持ち主であり、村人たちとの友情、信頼、猜疑、愛などを通して物語がダイナミックに展開していきます。重厚な人間ドラマとしても楽しめるでしょう。

エンタメを仕事にしたい人

黒澤明の映画作りに対するアプローチやストーリーテリングを学ぶことは、エンタメ業界を志す人にとって意義が大きいでしょう。

リーダーシップやチームワークを学びたい人

異なる背景を持つ侍たちが一丸となって野武士から村を守る物語は、チームワークやリーダーシップについての示唆に富んでいます。『七人の侍』を観れば必ず成功するとは断言できませんが……

ぜひこの機会に、『七人の侍』を視聴してみてください。

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