『椿三十郎』(1962年)
主演:三船敏郎/仲代達矢
黒澤明監督の大ヒット作品『用心棒』(1961年)の続編。型破りな浪人・椿 三十郎の活躍を描いた傑作痛快時代劇。若侍たちとともに藩の奸物を討つために三十郎が立ち上がる。ラストの緊迫した対決シーンは時代劇映画史上に残る名場面。殺気立った中にもどこかほんわかとあたたかみのある『椿三十郎』を紹介。
- 時代劇に苦手意識のある方
- スケールの大きい役者の芝居を堪能したい方
- 脂ののりきった時期の黒澤作品に興味関心のある方
- 普段から「自分は小さいなぁ…」と思い悩んでいる方
『椿三十郎』の動画配信を見ての感想
監督・俳優が桁はずれ、だから楽しさ桁はずれ
「今さら、モノクロの古い時代劇なんて見てもねえ……」
「ただのチャンバラでしょ?」とお考えの方もいるかもしれない。
そんな人にこそ、『椿三十郎』を見てほしい。
胸ぐらつかまれグイグイ引っ張っられるかのように、鮮烈なラストシーンまで一気に駆け抜ける視聴体験を楽しめるだろう。
とまれ監督・黒澤明と俳優・三船敏郎、双方の桁はずれなスケール感には瞠目すべきものがある。黒澤明だからこそ、三船敏郎という桁はずれな俳優をいかに動かせば劇的愉悦を最大限に引き出せるか、その勘所が掌を指すようにわかっていた。まさに「名将は名将を知る」である。げんに黒澤監督以外の侍ものに出演している三船敏郎は、なんだかスケールが合わずに、”勢い余って” という演技が少なくない。
ファンとしては残念至極なことだが、桁はずれな監督と桁はずれな俳優が別々の道を歩むことなった理由も、凡人には到底理解しかねる桁はずれな理由があるのだろう。もしかしたら、やれることはすっかりやり尽くして、双方とも創作的限界を感じていたのだろうか。桁はずれな者同士、お互い命をぶつけあって削りあうような映画づくり。どんなに充実していても、いや充実するほどに監督も俳優も心身が持たないだろう。創造というもののデモーニッシュな側面だ。
そう考えると、『椿三十郎』をはじめとする黒澤&三船映画にはいっそう感慨深いものがある。
切った張ったの殺伐たる世界の中にも、ほんわかしたユルさが…
そんな『椿三十郎』、ストーリーもスリリングで面白さ抜群である。
原作は山本周五郎の「日日平安」。
黒澤明は優れた原作の枠組みを借りて、奥行きのある物語を映画的に再構築する達人だ。
機略に富む三十郎と黒幕一味の知恵くらべ・腕くらべは中だるみすることなく、頭のてっぺんからしっぽの先まで無駄なシーンはきれいに取り除かれている。練りに練った起伏に富んだストーリーもさることながら、人間の心の複雑な陰影を活写することに毛筋ほどの妥協はない。
黒澤明作品の中で、殊に『椿三十郎』は、諧謔と滑稽味が強く、ほどよいゆるさが特徴的だ。切った張ったの荒みや殺気を質の良いユーモアでほどよく中和して、あたたかくインティメートな黒澤ヒューマニズムを全編に行き渡らせている。入江たか子、伊藤雄之助、小林桂樹といった脇役たちの存在も「ほんわかした人間味のあたたかみ」に寄与しているようだ。見ているとつい笑みがこぼれてしまう。
プロフェッショナルの含羞
なぜ黒澤明の映画がこんなにも桁はずれなのか、今回、『椿三十郎』の雑感を書いているうちに、なんとなく整理できた。
一言で言えば「含羞」である。
桁はずれな作品を生み出す、一切の妥協を排したストイックな制作スタイルの根底には、映画づくりへの「含羞」があるのではないだろうか。
『椿三十郎』に限ったことではないけれど、黒澤作品を見ているうちに巨匠の気概と含羞を滲ませた声が聞こえてきそうだ。「人間の人生を一本の映画で表現するのは、はなはだ僭越千万なことだ。分際をわきまえない行為なのだ。それでも映画を作らずにはいられない。メガホンを執らずにはいられない」と。だからこそ、中途半端な映画を世に送り出すことを潔しとしなかったのではないだろうか。いわば「含羞」が創造性をドライブしているように感じるのだ。
プロフェッショナルであるがゆえの含羞━━ これは黒澤明監督に限ったことではない。あらゆる世界、あらゆる業界のプロフェッショナルは含羞や葛藤を抱え、日々、呻吟しながらも新しい挑戦をし続けているだろう。含羞を裡に秘めることはプロフェッショナルである証なのかもしれない。
プロフェッショナル黒澤明が粘って粘って粘り続けてやっとOKを出した『椿三十郎』の最後の対決シーン、刮目して御覧ください。奇跡のような ” ため ” のある殺陣に息を呑むでしょう。
『椿三十郎』のキャストについて
椿三十郎(三船敏郎)
前作『用心棒』からそのままに、むせかえるような野性味は発散させながら、腕が立ち頭もキレる浪人を達演。今回の三十郎はコメディリリーフの要素も強い。軽率な若侍にあきれておどけてみせるそぶりに微苦笑を誘われる。
だがそこは三船敏郎。若侍や城代家老奥方がかもしだす微温的な空気にペースを乱されながら、見せるところはしっかり見せる。決めるところはバッチリ決める。派手な大立ち回りで観客をみっちり酔わせる。
三船の気概と矜持を感じさせる緩急自在の演技は圧巻だ。ときおり見せる、人情味のぎこちなさにもしっかり小味をきかせている。ズバッと正面から斬り込むような三十郎の造形に、ほっとするような人肌のあたたかみを加えることを怠っていない。そのあたりに三船敏郎の ”どでかい役者的野心” が感じられる。
室戸半兵衛(仲代達矢)
前作『用心棒』で演じた卯之助よりも、今作の武士の方がただならぬ狂気を醸し出していて、鬼気迫るものがある。折り目正しき狂気とでもいおうか。人間的なやさしさや寛容さを削ぎ落とし、終始、硬質で怜悧な表情を崩さない。
この室戸半兵衛という役柄を並の役者が演じたら、殺気と個性を共存させることができず、中途半端な凄味しかない大味な人物になるだろう。だが仲代達矢は違う。求められている「室戸半兵衛」を明晰に読解し、抜かりなく演じきっている。官僚的な室戸にたっぷりのドスをきかせ、酷薄な色気を加えているのは特筆に値しよう。桁はずれな椿三十郎の敵役として不足はない。
井坂伊織(加山雄三)
さわやかで、むこうみずで、軽率で、血気盛んな若侍のリーダー格を真率に演じている。「一点一画おろそかにしないぞ」と言わんばかりに、ひとつひとつのセリフや所作を丁寧に置きにいくような演技だけど、もたつきがないのが好印象。行儀正しいが、息のつまらないハンサムさがこの人の持ち味だ。
黒澤明の『赤ひげ』(1965年)では、井坂伊織の晴朗さを、さらに一歩奥に進めた刻みの深い演技を見せている。『椿三十郎』は、役者・加山雄三にとって原点になっているのではないだろうか。
見張り役の侍 木村(小林桂樹)
室戸半兵衛の部下。冷酷非情な上役とは対照的な、ほのぼのとしたまるみのある人柄で、穏やかな小春日和のひだまりのごとき存在感を放っている。あふれんばかりの善良さをひしひしと伝えてくる稀有な役者だ。
三十郎たちに軟禁されているにもかかわらず、押入れからちょくちょく顔をだしては若侍たちに正鵠を得た忠言をするところがなんだか可笑しい。けっさくなのが、三十郎の計画どおりに黒幕一味が動いたという吉報が入り、思わず井坂伊織と肩をだきあって陽気な音楽とともに小躍りするシーン。井坂と木村、敵味方の区別も忘れて喜ぶ姿に、黒澤ヒューマニズムがしみじみと感じられて胸があたたかくなった。
城代家老奥方(入江たか子)
『椿三十郎』のおける、この大女優の演技を音楽にたとえるなら、クララ・ハスキル奏でるモーツァルト「ピアノ協奏曲 第23番」というところだ。滋味豊かでのびのびとたおやかな詩情をたたえている。
結論を急ごうものなら、「あなた、、、いけませんよ」とやさしくたしなめられるような。それでいて、世界に何が起ころうとも、取り乱すことのない芯の強さがあり、外柔内剛な人格を感じさせる。『椿三十郎』に親密なぬくもりを与えているのは、この女優の存在感に負うところが大きいだろう。
『椿三十郎』作品情報
監督 | 黒澤明 |
脚本 | 菊島隆三/小国英雄/黒澤明 |
撮影 | 小泉福造/斎藤孝雄 |
音楽 | 佐藤勝 |
出演 | ・椿三十郎・・・三船敏郎 ・室戸半兵衛・・・仲代達矢 ・井坂伊織・・・加山雄三 ・見張り役の侍 木村 – 小林桂樹 ・保川邦衛 ・・・田中邦衛 ・城代家老奥方・・・入江たか子 ・城代家老 睦田・・・伊藤雄之助 |
上映時間 | 96分 |
ジャンル | 時代劇 |
ストーリー
神社の社殿に集まって密議をこらしているのは、血気盛んな9人の若侍。井坂伊織(加山雄三)を中心に、汚職に手を染めた奸物の粛正を画策していた。たまたま社殿の片隅に居合わせて話を聞いていた三十郎(三船敏郎)は、岡目八目とばかりに黒幕の正体を告げる。周章狼狽する若侍たちを見るに見かねた三十郎は彼らに加勢。並外れた剣の腕と鋭い機智を武器に、黒幕一味と知恵比べをしながら、お家騒動の真相に肉薄してゆく。そんな三十郎たちの前に、黒幕の腹心、室戸半兵衛(仲代達矢)が立ちはだかる……
【椿三十郎コラム】「自分で自分を笑い飛ばすことの大切さ」
『椿三十郎』の中で印象深いセリフがあります。城代家老 睦田弥兵衛(伊藤雄之助)の「人は見かけによらねえよ、あぶねえ あぶねえ」。お家騒動の黒幕はとんでもないところにいることを示唆しています。
城代家老は、椿三十郎をして「城代はなかなかの玉だぜ。テメエが馬鹿だと思われていることを気にしねえだけでも大物だ」と言わしめるほどの人物。知恵も大局観もあるけれど、いくぶん間延びした顔のためか、周囲から侮られやすく勘違いもされやすい。本人でさえ「乗った人より馬は丸顔」と自嘲して、皆を笑わせ、自分も笑う。大きな器量の持ち主だからこそできるふるまいです。「人は見かけによらねえよ、あぶねえ あぶねえ」は御本人にも当てはまる。
言うまでもなく、城代家老は映画というフィクションの中で造形されたキャラクターですが、この特異な人物から僕は人が生きる上で死活的に重要な知見を学びました。
それは「自分で自分を笑い飛ばすことの大切さ」です。
自分で自分のことを笑い飛ばすには、醒めた視点で自分のふるまいを見つめる必要があります。健全な批評眼を自分に向けることができるため自分の間違いにも気付きやすく、自分で修正をかけることも難しくありません。また、肩の力を抜いてリラックスできるため、何か大きな決断を下す際も冷静に大局的な視点を保つことができるでしょう。何より、自分で自分を笑い飛ばせる人は、謙虚さと機知を備えた人間であること周囲に示すことができます。
そう考えるなら、自分で自分を笑い飛ばすことは、自分の成長を加速させ、人間関係を良好にする高度なヒューマンスキルといえるのではないでしょうか。
僕は大きな人物でもなんでもありませんし、高い能力を持つ人間でもありません。ですが、自分で自分を笑い飛ばすくらいはなんとか出来ています。これの素晴らしい点は、誰も傷つける心配はないということです。そうやって自分を笑い飛ばしているうちに心に余裕が生まれて、気持ちが揺らぐことも少なくなりました。
よくよく考えたら、城代家老 睦田の飄々とした態度も腑に落ちます。自分を笑い飛ばすことで、心に余裕と客観性が生まれる。余裕と客観性が生まれれば曇りのない視点と確かな見通しによって、自分のふるまいを吟味し質の高い意思決定ができるようになる。かくして自分を高く保つすべを心得ているように思うのです。
あなたに周りにも、見かけはのんびりと間延びした顔をして、穏やかな性質の人はいませんか?自分で自分を笑い飛ばすような人です。もしかしたら、その人は人間世界に精通している「大人物」かもしれません。「人は見かけによらねえよ、あぶねえ あぶねえ」です。
『椿三十郎』の動画を配信しているサービスは……
※ただし時期によっては『椿三十郎』の配信およびレンタル期間が終了している可能性があります。